2014年9月14日日曜日

「楢山節考」と敬老の日

私は深沢七郎の『楢山節考』は読んではいない。確か木下恵介(昭和33年制作)の映画はみている。70歳になって山に捨てられる老女は田中絹代が演じていたのも記憶している。
Wikiによれば、この小説は以下のように紹介されている。
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『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。
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映画も此のストーリーどおりであったと記憶している。
この映画を観たのは私は中学生の頃だが、正直、気の滅入る映画であった。
小説も読む気にはなれなかった。当時、私にとっては、あまりに異界の世界だったからだ。
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此の国では飽食の時代と言われて久しいが、飢餓の体験は私たち世代・・・と言っても私は今や「捨てられる」べき古稀ではあるのだが・・・にとって身近にあった時代でもある。
あるいは近い将来において、何らかな理由により空前なる飢餓の時がくる可能性も高い。だから、『楢山節考』が将来、異界の世界とはならないとは誰も決して言えない。
その時の現実は、此の小説のように『優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出』すほど、甘くはないだろう。残念ながら。
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Wikiで或る人の発言も紹介している。いわく、
『姥捨て」は「高齢者福祉」という21世紀の大きな問題として現在し、介護施設に親を入れることは、「楢山まいり」に行くことと重なり、老いと死は人間の根本的な問題の「根源神話」であるとし(以下省略)』
私は介護施設が「楢山まいり」とは決してならないと信じている。事実、個人的体験として現行の介護施設制度がなかったら私は自殺に追い詰められていただろう。
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Wikiでは、いろいろな人が此の小説についての感想の断片も紹介している。
その中で三島由紀夫のそれが印象的だったので、少し長いが引用しておこう。
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また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら、以下のように語っている。
しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる。
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三島は此の小説を「不快な傑作」と評している。
今生という世界は、何も此の小説のみならず、其の大半の世界は『崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、この世にたよるべきものが何一つな』いのが偽らざる普通人の実情だと私は思っている。
おりしも今日は敬老感謝の日。感謝される人間が感謝する人間よりもベキ乗で増加されつつある今、この祭日も近々無くならざるを得ないだろう。