2016年12月29日木曜日

θ君からの便り

久しぶりにθ君から便りがきた。θ君の友人:B君がタビューを受けたようだ。

質問者は何かの雑誌社の人のA という人で、そのインビューの内容は以下のようだという。
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A : 貴方の好きな人は?
B : 大勢いて言いきれません。
A : では嫌いな人は?
B : それはいます。
A :  誰ですか?
B : ・・・ それは私。
A : 何故ですか?
B : 大嘘つきだから。
A : ・・・
A : では食べ物の好物は?
B : 水です。昔は、いろいろありましたがね。
A : それは結構ですな。
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いかにもθ君らしい友人だ。
θ君のオレへの便りは、これが最後だという。

2016年11月30日水曜日

θ君からの便り

久しぶりにθ君からの便りがあった。
彼は詩もどきも作るらしい。以下のようなコトが書いてあった。
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ふすまを あけると
げんとおは あおい かあてん の なかに ゆれていて

いくつも いくつも だれもいない おざしきを とおって
ほんのりと あかるい おへや の ふすまを あけたのです

もやの なかに ひすい いちめんに ころがっていて
きらきらと わたしの め からあふれ

ほんのりと あかるい かあてん の なかに げんとお は ゆれ

ひすい は あつい たまと なって ながれ おち
ころころと ころがって ゆき 

だれも いない おへや で 
げんとお は ゆれて いたのです

   **年 **月 祈りの日に
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オレはコレ見て、中也の下手な真似だと苦笑した。
相変わらずのヤツだ。

2016年10月22日土曜日

θ君からの便り

久しぶりにθ君からの便りがきた。以下のように書いてあった。
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思案気な 案山子の 影の 長さかな

秋深し 遠く去りゆく ものうりの声

秋雨じゃ 濡れて風邪ひく 半平太

落ち葉焼く じいさん ばあさん 鴎外の

秋は去り なにはともあれ 我が命
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相変わらず下らぬシロモノばかりだ。ふざけていやぁがる。

ところで、だいぶ寒くなってきたが、θ君は夢を見たそうだ。いわく

三ツ星は あれよと指すは 夢の母

どうも少女趣味で話にならない。

2016年10月17日月曜日

θ君に忠告したら・・・

今日、θ君に会って、季語辞典でも買ってベンキョーしたらどうだと、「忠告」したら、そんなものはいらぬ、そもそもベンキョーなど無用の長物だと、問題にしなかった。
それは、そうかも知れぬとオレも思った。他人のアレコレを見たり、ベンキョー会など、ジャマッケだとオレも思った。
自分が見たもの、思ったものを勝手に書きなぐるのが、θ君もオレも性にあうらしい。
そこでθ君の「新作」を見せてもらった。
以下が其れである。
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もののけも こたつ ほしげな 重い雲

黒塚の 女の家の 罔き ともしび

女房の うなじに 写る 秋の翳

去る秋も 友も逝きたり 置手紙
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オレを此れを見て、相変わらずだな、アハハハと笑った。

θ君より、また便りがあった

先日、彼から便りをもらったのだが、また便りがきた。
以下のようなシロモノが書いてあった。
-------------------
秋風や 縦に置かれし 竹ぼうき

かきくけこ ふりかえみれば なにぬねの

語る者 聞く者 涙の 秋の暮れ

朝寒し いつまで続く 残暑かな

時刻(とき)の声(ね)に のそりと動く 秋の蠅
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相変わらず、くだらないモノばかりで、彼はこのテの才能がなんらしい。

季語辞典でも買って少しベンキョーしたら、いいのに、と忠告したほうが、よさそうだ。

2016年10月14日金曜日

θ君からの返信

先日、オレはθ君のノートにイタズラ書きを書いたら、彼から以下のような 「返信」 がきた。

***

尼ひとり 歩むや 秋澄む 阿弥陀堂

秋陽さす たたみ の うえ の 猫のツメ

紫苑さす をんなの ゆび の しろさ かな

ものうり の こゑ する 夕べ の 秋すだれ

***
オレは其れを見て、ちょっと技巧が過ぎるな、と返事しようと思ったが、やめておいた。

2016年10月12日水曜日

童(わらべ)唄

δ君は、子供の頃、彼の祖母より、以下の、わらべ唄を聞いたそうである。
-------------------
一つとせ 人の いのち の はかなさよ

二つとせ ふみ よむ ひと の ほほえみ よ

三つとせ みごとに に さいた はす の はな

四つとせ よんで きましょう おきく さん

五つとせ いつも ひらかぬ ぬし の うん
--------------------
またδ君は、彼の祖母より

のの字 のの字 の 落ち葉かな

という俳句だか何だか知らぬが、聞いたそうである。

2016年10月11日火曜日

θ君のノートを覗き見したら・・・

私の友人にθ君がいる。

彼のいないとき、彼の黄ばんだ小さなノートを覗いてみたら
こんなことが走り書きしてあった。

***
・爪切りて フト 見上げたる 鰯雲

・なんとまあ 坊主頭に 枯葉落ち

・秋雨や 鈍く光る 猫の エサ皿

***
そこで、オレは其のノートに書きつけてやった。

・御詠歌の聞こゆる秋の深まりぬ

・秋風やリーマン予想を想うなり

実はθ君は数学が好きだからだ。

また彼はチャンバラ映画が好きだったので、

・無残やな血潮飛び散る彼岸花

***
オレは其のノートを、そっと閉じて知らん顔していた。

2016年10月9日日曜日

β君への手紙

久しぶりだね。気がついてみたら、今年は、あと三カ月も満たない。

それまでオレは何してたんだろう、と思う。

初春の頃からオレは季節というものを全く失っていた。

雨戸を締め切り、カーテンも閉め、一匹の猫と一緒に、ひたすらオレの部屋に閉じこもっていた。
そして時計の針の動きばかりを見つめてイライラしていた。

***
今朝、初めて雨戸をあけ、カーテンを引いて外の景色を眺めた。

まるで、オズの魔法使いのドロシーのように、見慣れたモノたちが、オレの目にとびこんできた。

***
何年か前、庭に植えた柿の木には実をつけていたし、スモーク・ツリーは、「やあ、やっと目が覚めましたね」と、オレに語りかけてきた。

***
「ものごと」が、やっと、動き始めたような気がする。

でも、当分の間は、オレは、やはり「ミノムシ」の習慣を続けるだろう。
「慣性の法則」っていうヤツさ。

***
カーテンを開いた空は、あいにく冷たい雨が降っていて、空はドンヨリと曇っている。まるで、今までのオレの、これまでの心象の残像のように。

しかし、そのうち晴れてくるだろう。

***
ふと、オレは思い出した。誰が作ったのか知らないが、

行く秋や歳をたずねる人ありき

遠き日や夢の中なる柿の家

行く秋やあなたこなたの山の色

秋の夢河原の上は花もなし

***
いま、とつぜん花火の音がした。
どこかで、なにかの催しを、してるんだろう。




では、またーーー

2016年9月30日金曜日

εさんからの便り


お久しぶりです。あれから百万年たちましたね。

ところで、あなたは、いつ、逝かれるのですか ?

わたし、先日、鏡を見ましたら、わたしが、微笑、というより冷笑を
していたのでございます

***
わたし これまた 先日のことなんですが
ひとり の 女 が 暗い 街灯 の 下に 佇んでいたので ございます
真昼間 というのに そこだけが 暗いんです

***
わたし 詩でも 作ろうと 思いましまして

「とおもろこし と おいてみる」

と書き始めたんですけど あとが 続きません

***
秋の河原の小石は いくつあるのでしょう

確かに 頼り気のない 陽 が 射しておりました

わたし それを見て ふと あなた を 思いだしたのでございます

***
ある人が申して おりました

身にしみて捨て猫抱きて帰りけり と

その猫を その人は わたし に 差しだしました
もちろん わたし は 引きうけました

こうして あなたに お手紙を書いている ときも
その猫は わたし を じっと 見ているので ございます

***
とりとめのないこと を 書いて すみませんでした

                    早々

2016年9月29日木曜日

η君の妄想

 時計の「はり」が左周りに周って、人が、どこかの闇から、フイッと現れ、その姿は無惨な老人で、そして、だんだん若くなって、青年になり、子供になり、幼児になり、そして、また、フイッと、何処かへ消えていく。
***
熱力学の第二法則ほど退屈なものはない。
***
本の販売店から二冊の本が盗まれた。一冊の本は見つかったが、もう一冊の本は、溶けていったらしい。
***
台風は馬鹿正直にやってくるが、来るぞ、来るぞ、と脅かされてカタストロフィー、一向に、やってこない。狼少年になってしまうではないか !!
***
久しぶりに外に出たら、世界が眩しくてしようがなかった。どこぞの老人が車椅子に乗ろうとしていた。
***
医者は検査ばかりしている。古稀を過ぎたら、一切の診察・投薬・検査を中止し、医者たちは、もう知らん顔をすればよい。余計なお世話が多すぎる。
***
世界の全てが御破算になってしまえば、スッキリするのに、ズルズルと全てが腐っていく。
***
逝く人の口に含めし秋の水
誰だ、こんな駄句を作ったのは !!
***
東大安田講堂攻防戦のときの、便所の落書きに、
「藁のようにではなく、死んでいくのだ」
と書いてあった。
***
むかし、むかし、の、おはなし、よ
これが、一番、面白い。
***

『世の中は地獄の上の紅葉狩り』


2016年9月27日火曜日

ω君が言うには・・・


ω君が言うには、柿の木に梨がなったから、
食べてみて、と私に差し出した。

私は其れを食べたら、なるほど梨の味がした。

そこで私はω君の顔を見たら
ω君の片目は硝子だった。

私が中学生の頃だったか・・・

私が中学生の頃だったか、一人の友人がいた。
その友人は、教室の片隅で、いつも、ひっそりとしていて一人だった。

或るとき、彼は紙きれを私に黙って渡した。
それには、以下のように書かれていた。
-------------------
岸壁に猿は哭けり
秋霜として降りける雨は
いたらずに大海に消えぬ

***
道行く人よ
何処へ行きなさるのか
その道はあまりに暗く
あまりに罔い
-------------------
私は、それを見て、こう彼に言った。

『なんだか支離滅裂じゃあないか。それに古臭いな』

すると其の友人は、苦笑いして黙って、教室の窓から見える秋の景色を見やった。
私は、悪いことを言ったかなと思い、私も秋の景色を見て、少し淋しかった。

***
なぜか、私は、今でも、その友人の苦笑いを思いだすときがある。

釋超空の歌三つ。

少し季節外れだが、歌に季節は無用、と私は思う。

なぜなら、人の心には、「季節」は本質的なものでないから。

--------------------------------------------
『山の夜に 音さやさやし。
    聴こえゐて、夜ふくる山を おもへり。』

『雪ふみて さ夜のふかきに還るなり。
    われのみ立つる音の かそけさ 』
***
作者は民俗学探求の旅の途中、宿をとった。

人里離れた奥山の底の宿である。

夜になった。床に入ったが眼が冴えてくる。

山の音。それが耳に冴えてくる。

寝入ったのいつだったか。

作者は一面雪の原に立っている。

それを遠くから見つめている作者がいる。

***

『風の音しづかになりぬ。

   夜の二時に 起き出でゝ思ふ。われは死ぬなずよ 』

2016年9月25日日曜日

でも 物語

でも 仕方ないんじやない 頭 悪いのは

でも 仕方ないんじやない オール3 なのは

でも 仕方ないんじやない  ブス なのは

***

だから わたし 鏡 大嫌い

***

きみ きみ いかんぞな

そんなところで 立ションしては

ダメ猫哀歌

オマエ いくつに ナッタんだい?

ひー フー みー ヤー ・・・

そうかい。 七ツかネ


***
トキドキ 吐ク ねぇ

ダメ男ガ ソレを 


一生懸命 ティシュ で フキトッテる

***
ベージュ の 毛皮 イツモ 着テいて

暑ク ハ ナイカイ

#$%&#$%&#$%&

オレ は 先ニ 逝ク カモ

ゴメンな


2016年9月24日土曜日

見なくなって久しいもの10

・墓場の彼岸花

・夕焼け小焼け

・電線の並ぶ雀たち

・ゴミ捨て場の猫

・駄菓子屋の御婆ちゃん

・あのキンキラキンの葬儀車

・立看板

・ガキどもの喧嘩

・夕涼みの、あねさん

・鼻たれ小僧

詠み人知らず


足るを知る 野分けの後の 秋刀魚のハラワタ

2016年9月23日金曜日

詠み人知らず


野仏に 野菊を 残す 人 ありき

Nobotokeni Nogiku wo Nokysu Hito Ariki

閉めきった部屋の・・・

早い朝、閉めきった私の部屋の窓のカーテンを引いてみると、
薄暗い、冷たい小雨の中の 3 本の電線の 1 本に一羽の鳥が止まっていた。
どうもカッコーのようだ。それにしては時期がおかしい。
もしかしらモズかも知れない。鳥に詳しくはない私には分からない。

寒くて鳴く気もしないらしい。

2016年9月22日木曜日

つめたい小雨に

つめたい 小雨 に

ぬれる にわ の 木々 の 葉

けいろう かい の

かすてらの あまき あじ

かそかなる幻

『 かそかなる幻 ーー昼をすぎにけり。
     髪にふれつゝ 低きもの音 』

***
「私」(女性は幻影を見た。

幻影? たしかに、それは幻影としか言いようがない。

秋の昼の陽の光は解析幾何学のように透明であったが、

しかし一瞬の翳りを「私」は、その光の中に見た。

その翳りは幻影となって、ふと「私」の髪にふれた。

「私」 は驚いて振り返って見た。

だが、見えたものは透明な秋の陽の光ばかりだった。


ただ、『低きもの音』 が 「私」 の耳の奥で、今も思い出したように響いている。

今日もまたかくてありなむ

昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを あくせく
明日をのみ思ひわづらふ

***
べつに、『明日をのみ思ひわづらふ』 っているわけではないが、
今日、この頃は、一日が、まるで一年の四季のようだ。

朝は冬、午前中半は春、昼間は夏、そして秋が訪れ、また冬となっていく。

***
いくたびか榮枯の夢の
消え殘る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き歸る

***
そうだな。我が残像の夢。

2016年9月21日水曜日

おお 寒い !!

朝、 4 時。温度計を見たら、温度:20.5度。湿度76%。
なんてことのない数値なのに、寒いと感ずるのは、我が身体が暑さ慣れしているからだろう。 しかし、今年の夏は当地は 30度 を超えた日は、無かった気はするのだが・・・。
 つまりは、己の自律神経が不調のためなんだろう。
***
台風 16 号は、温帯低気圧になったとか。被害を受けた方々には申し訳ないが、当地は先ず、ひと安心のようだ。
ただ、ネットで調べると、当地は、まだ大雨注意報が出ている。
しかし、今、私宅の外は未だ真っ暗だが、大雨は降っていないようだ。
***
私は、起床直後から午後 5 時半頃まで、飯を食う時間を除いて、CD 再生機→アンプ゜→スピーカーを通して、音楽を聴いて過ごしている。これらの機器は大昔買った、当然、安直なモノだが、未だ健在ではある。
聴いている音楽は最近は、以前、我が日記に書いたメンデルスゾーンの『無言歌集』のみ。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=3166920996059152859;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=1;src=postname
で、今朝も此れを聴こうとしたら、音が全然しないではないか。
ついにイカレタかと思ったら、アンプのボリュームを最低にしてあった !
実は、私は、晩にテレビ (これも同一アンプに接続してある) をみるとき、音声は五月蠅いから最低、つまり無音にしている。
それを今朝、忘れていたのだ。『無言歌集』が聞こえないのは当然であった !
***
私は眼鏡をかけているのだが、最近、かけている眼鏡を、
どこへやった、どこへやった、と大騒ぎすることがある。

やはり 私は、ボケタン デ ショウカ ?

どうして記事を書くのか?

このように誰かから訊かれたら、私は、ただの「暇つぶし」と答えるつもり。
では、なぜ、自分のPCのHDにでも書かないのか?と訊かれたら、正直なところ、私は回答に窮する。屁理屈を言えば、サイトに書くことによって、「書く」というモチベーションを高めるためにサイトに書く。
***
と言ったところで、私が書くのは、畢竟、つまらん些事のみで、他人様に見てもらうようなシロモノではない。
勿論、コメントを頂ければ、リコメントをする努力?は私は、しているもり。
それは礼儀というより、私の場合は、そうしたほうがスッキリするだけのこと。
***
以下のような言い方をすると、不遜に聞こえて不愉快に思う人があるかも知れない。人を不愉快にするのは、いい趣味とは言えないから、もし、そう思う人が居られたら始めからゴメンネと言っておく。
--------------------
私の記事は先に書いたように、ただの暇つぶし。
若い頃ならともかく、その日記の駄文を通して、他人さまと「おともだち」になろう、とはユメユメ思わない。

私の現況は、情けない話だが 『座して、己の死を待つ』 だけという状態。
その間の暇つぶしに、駄文を書いているだけのこと。
こういう私でも、大学生の頃までは、鉛筆で紙に日記を書いていた。
その日記も、大昔、捨ててしまった。
つくづく思うことだが、PCで駄文を書いていると、ものの見事に、漢字を忘れてしまう。おそろしい、くらいだ。
***
私は、どのサイトの他人さまの書いたものは、ほとんど興味も関心もない。
このごろは、小説も読まないし、映画もテレビも新聞も大相撲もオリンピックも、全く関心がなくなった。これは決して良いこととは私は思わない。
つまりはボケの始まりだろう。チュウイ セネバ ナルマイ。
***
『私は加齢につれて、大いに、人生を楽しむようになった』という人もいるだろう。大いに結構なことだ。ケチなど、つけることは私は毛頭もない。
ただ、私は馬齢を重ねるにつれて、関心事が、泡のように消えさっていく。
では淋しいかと誰かに、問われたら、私は、別に、淋しくも侘しくも私は感じていない。
***
なぜ、記事など書くのか?
やはり、暇つぶし、ということしか、私は、言いようがない。
***
私の唯一の「おともだち」は、いつも私の傍にいるダメ猫だけである。
彼は狸寝入りばかりしている。
ダメ人間の私が、日記を書くような莫迦なことは、彼はしない。

たいしたもんだ。

『無言歌集』 (メンデルスゾーン)

30年程前、私は図書館から音楽CDを借りて其れをコピーしていた時期があった。 図書館に置いてあるCDは古いものだからコピーは容易にできた。

私は根がケチだから買うよりもタダでコピーできることは大いに魅力があった。 実にケシカラン男であったわけで私のような人間がいるから今やCD等はコピーできないようになっているようだ。
***
そのようにしてコピーしたCDに掲題のものがある。

実は此のCDは図書館の音楽教材棚に並べられていたCDで、たぶんピアノ演奏初心者練習用のものだろう。

私は音楽は小学生の頃、ハーモノカを吹いていたことがあるが其れ以外楽器には全く無縁な者であって今や口笛さえ吹くのに苦労するし、勿論、譜面など全く読めない。

中学生の時、音楽の理論めいたものの初歩の初歩を習った覚えがあるが其れも完璧に忘れてしまった。 しかしドイツ3大Bはバッハ、べートーベン、ブラームスと習った気がするが、そんなロクデモナイ知識は現在音楽を聴くうえで何の役にも立たない。
***
というわけで私は音楽については押しも押されもせぬ完全な素人であるが、聴くぶんには人並みに聴く。

そんな完璧な素人の判断であるが掲題のCDの演奏は、いかにも音楽の先生が譜面どおりに几帳面にピアノを弾いているように私には聞える。

およそ『けれん』とは、ほど遠い弾き方に聞こえる。音楽の教材なんだから、無用な虚飾は排しているように聞こえる。

私は掲題の曲は此のCDしか聴いたことはないのだが、たまにプロの他の演奏家が弾く此の曲をラジオ等で聴くことがある。

そういうとき、私は、違和感を感ずることが多い。

その演奏家の此の曲の解釈故なんだろうが、なんとも『いやらしく』私には聞こえてしまうのだ。その演奏家の『思い入れ』に鬱陶しくなるのだ。 たぶん此の私の感じ方は、私が其の音楽教材のCDに耳慣れているせいだろう。

掲題の曲の演奏は、音楽の先生による『真面目に、几帳面に』弾かれたものでないと、どうも虚飾を感じてしまうように刷り込まれたらしい。音楽を聴くにも『刷り込み現象』に似たものがあるようだ。

ともかく慣れというものは恐ろしい、というより何事も初体験が肝心らしい。

実は現在も、ほとんど毎日聴いている。ともかく安定とは言えない我が神経を逆なでしない有難いCDなのだ。

当地の早朝は・・・

涼しいというより寒いくらいだ。
私は冬着るモノを持ち出し着ているし、冬用の靴下も履いている始末だ。
全く、この国は季節に追いまくられている感じがする。
昔は其れを風情があると思っていたが、今や、コセコセした小者の感じが、この国にはする。 と思うのは私だけだろうが。
***
台風も、まるで、仇をば打たんばかりに、次々と現れる。迷惑至極だ。
なんだかんだと不平タラタラしている間に、いつの間にか今年は既に半分を過ぎてしまった。
寒いだの暑いだの、全く、つきあっていられない。
どこか、天候の平穏な国はないのものか。あればあったで、別の不平タラタラが、おっばじまるのは知れたことだが。
***
そろそろ、当地は、ツクツクボーシが鳴いてもいい頃だが、台風で、それどころではないらしい。
そう言えば、今年は、毎年、当地にやってくるカッコーの鳴き声も聞いた覚えがない。雀どもも見かけなくなった。

なにか異変でもあるのか。

2016年9月9日金曜日

仮想村の中の仮想村

どのSNSにも、日記なるものはあるものだ。

或るSNSにも当然、日記があるが、そのSNSの一つの特徴として、日記の他に、HNを変えた他の日記がある。(その他の日記を##日記と仮に名付ける)

私は其れを奇妙に思ったので、『仮想村の中の仮想村』 という日記を書いた。
以下は其のコピペである。
===================================
このサイト に##日記という妙なモノがある。

そもそも此のサイト自体が、SNSという仮想の・・・強いて言えば 『村社会』・・・の世界なのに、どうも、この仮想村が、リアルな社会になっている人がいるらしい。

だから、此の仮想村の中に、更に仮想の世界が必要になっている人がいるらしい。

妙な話だ。

***
尤も、我々の今生の、いわゆるリアルの世界も仮想と言えるかも知れない。

『荘子のジレンマ』 というヤツだ。
胡蝶の夢ね。 Wikiの記載を引用すると、
---------------------------
夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。
--------------------------
してみると、##日記なるものは、夢の中の夢の中の、さらに夢になりそうな気が私はする。

***
いずれにせよ、##日記に書き込む人は、此のSNSという仮想村が、リアル社会化しているらしい。

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2016年9月5日月曜日

秋の虫の声

私は今迄気づかなかったのだが、早朝(4時頃)、風呂に入っていたら、外から盛んに虫が鳴いていた。 そうか、もう秋か。
私は酒は昔より飲ななかったが、というより飲めない体質だから当然、朝酒はしない。 だから朝湯はしても、「朝寝、朝湯が大好きな」ナントカさんとは違う。
***
ネットで調べたら、こう書いてあった。
------------------------------------
・西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる

・日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているということ

・音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、日本人も西洋人も共通である

・母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いている

・日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母語として育つと日本人型になってしまう

・日本人は太古から自然の恩恵を受けながら自然と共に暮らしてきました。
そこに存在するすべての音も景色も「美」として捉えていたのだと思います。

・日本独特の「わび・さび」も情緒では無く論理的に判断をしているのです。
この感受性は世界に誇れる感性なのです。

・日本の子供が「ワンワン」と答えるのは当然である。親が犬を指して「ワンワン」と教えるのであるから。同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。まるで自然物はすべて「声」をもつかのよう
(私以前書いた日記で『いろいろな猫のこと(その3)』、猫が「ワンワン」と、言ったこと
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=5703279476464942020;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=39;src=postname
・擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、日本語の特徴
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人間の脳の、例の右脳と左脳の違いの話であるが、果たして此れが世界共通の認識かどうかは私は知らない。 しかし、朝風呂に入りながら、虫の声を聞くというものは、いいのである。
***
1.あれまつむしがないている
チンチロチンチロチンチロリン
あれすずむしもなきだした
リンリンリンリンリインリン
あきのよながを なきとおす
ああおもしろい むしのこえ

2.キリキリキリキリきりぎりす
ガチャガチャガチャガチャ くつわむし
あとからうまおいおいついて
チョンチョンチョンチョンスイッチョン
あきのよながを なきとおす
ああおもしろい むしのこえ

作詞/作曲 作者不詳 文部省唱歌
「尋常小学読本唱歌」(1910年)より引用

***
其中に金鈴をふる虫一つ (高浜虚子)
虫時雨銀河いよいよ撓んだり (松本たかし)
虫しぐれ吾子亡き家にめざめたり (谷野予志)
虫なくや我れと湯を呑む影法師 (前田普羅)
虫鳴くや離れにて剪る明日の供花 (凡茶)
虫啼くや草葉にかかる繊月夜 (三宅嘯山)
窓の燈の草にうつるや虫の声 (正岡子規)
虫鳴き満ち灯影々々にま団欒あり (福田蓼汀)
啼かぬもの浅間ばかりよ虫の秋 (吉川英治)
水注いで甕の深さや虫時雨 (永井龍男)
本読めば本の中より虫の声 (富安風生)
虫時雨寡黙で通す友寝たり (凡茶)
書きかけの譜面を虫の夜の書架へ (凡茶)
***
なるほど、日本人は虫の声が好きなようである。
私も朝風呂に入りながら、一句、ヒネりたいが、残念ながら其のサイノーが無い。
そこで考えた。
あさぶろの そとでなくのは あきの むし (失笑)
***
台風12号が九州を通過したそうだ。

まだ、虫の声でウットリするのは早すぎる。

2016年8月30日火曜日

薩摩守 (さつまのかみ) のこと

今や、煙管 (きせる) と言っても分かる人は少なくなったと思われる。

芥川龍之介に 『煙管』 という面白い短篇がある。
今回は、その話ではない。

***
現在のJRを国鉄と言った頃の話だ。

その頃、鉄道に、薩摩守 (さつまのかみ) という、言わば隠語があった。
これも、今や、ご存知の方は少なくなっただろう。

薩摩守(さつまのかみ)とは・・・
***
少し落語めくが、「ただのり」 つまり無賃金で汽車に乗ることである。

ご存知、平家物語に、有名な 『忠度(ただのり)都落』 の哀話がある。
高校あたりの古文に、よく掲載されているアレだ。

***

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん・・・

***

さざ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

***
よい歌だと私は思う。

猫と一緒に居ること

私は、現在、自宅から出ることは、めったにない。一週間に二回、約100m程離れたゴミ捨て場を往復することと、毎月一回、約10Km離れた所にある病院を車で往復すること。原則として、それだけである。

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その他の時間は、自宅の二階で猫一匹 (3代目の、トッチャン) と文字通り、蟄居している。何か用事があれば、自宅の一階に下りていくことがあるが、それ以外は、二階で、この猫と同居している。

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以前の記事で書いたことがあるが、我が家には二匹の猫がいる。しかし互いに仲が悪い。その二匹の猫のうちの一匹は、いつも一階の部屋か我が家の外に居る。

二階の猫は、家の作りの故もあるが、二階の12畳の、事実上の私の部屋から出ることはない。

いつも私と一緒にいる。私が此の世をオサラバするまで、この猫は、おそらく、二階の12畳から出ることはないだろう。

私の傍で、いつも狸寝入りしている此の猫の顔を見ていると、ちょっと哀れに思える。

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しかし、もし、此の猫が居なかったら、と私は思うことがある。共にダメ人間と、ダメ猫ではあるが、私は、さぞかし淋しく思うだろう、と思うのだ。

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私のように外部との交流もなく、蓑虫 (みのむし) よろしく、言わば、刑務所の 「独房」 に居る人間にとって、なんであれ 「いきもの」 が皆無である、ということは、耐えられのではないか、と私は思う。一本の草木でもよい。「いきもの」 に必要なものは 「いきもの」 ではないか。

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随分、昔のことであるが、新聞か、ラジオか忘れたが、或る些事を報じていた。

それは一人住まいの老女が長い間、飼っていた一匹の猫が、或る日より水しか飲まなくなった。

その猫も老いていた。そして或る日、その猫が居ない。その老女が探してみると、その猫の水飲みようの皿近くで死んでいた。

ただ、それだけの、チッポケナな報道だった。

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その 「些事」 を私は、何気なく聞いたか見たかしたのだが、さぞかし、その老女は淋しいだろうと、なぜか私は痛切に感じたことを今でも私は覚えている。

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そのテの報道は些事として毎日のように、あたかもゴミ記事のように、報じられているだろう。しかしーーーー
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しかし、ダメ人間であろうが、ダメ猫であろうが、今生の、誰も気づきもしない場所で共に過ごした時間を失うということは、残された 「いきもの」 にとって、他人の知らぬ簡単に癒されぬ痛みがあるに違いない、と私は思う。

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「いきもの」 同志というものは、そういうモノだろう。

私は、私の傍で、いつも狸寝入りしているトッチャンの顔を見ていて、そう思うのである。

2016年8月29日月曜日

明(あ)くる空には行くべし、暮るる空には行くべからず

『成語林』という、故事ことわざ慣用句を集めた辞典がある(旺文社)。読んでいて、なるほど、と思う言葉が満載されている。ちょっと覚えておきたい言葉がもある。掲題の言葉も、その一つ。
その意味は下記のとおり。
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夜が明けようとしているときなら、暗くてもやがて明るくなるから安心して出発できる。逆に、これから日が暮れるというときには出発するのは危険だからやめたほうがよいということ。
(参考)いまはよくなくても先の見通しが明るいことがはっきりしていれば、多少無理しても断行せよ、逆に落ち目のときは無理はするなという教えと解釈することもできる。
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しかしながら、『先の見通しが明るいことがはっきり』していないのが、今生ではないか? 一寸先は闇なのである。
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今回の台風の経路だって、そうだ。確率というものは、その有用性は私は認めているが、結局のところ、過ぎてしまわなければ、その「真実」は分からない。
人生とは所詮、そんなものではないか。
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量子力学に『不確定性原理』なるモノがあるが、我々の人生だって、畢竟、不確定なのである。
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我々の人生は、いろいろな意味で、「先が暗いか明るいか」は、過ぎてしまわなければ分からないのである。もし、分かっていれば、これほど楽(らく)なことはない。逆に言えば、分からないこそ、人生が面白いとも言える。
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私は、以前、映画『ベルリン天使の詩』(87,ビム・ベンダース監督)について書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=7603670938327976593#editor/target=post;postID=664663224428130536;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=30;src=postname
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未来の、なんでも、知っている天使というものは、結局、なにも知らない、と同じことだ、という趣旨の記事だった。