2015年2月26日木曜日

猫と『銀河鉄道の夜』

昔、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の主要登場者が猫で擬人化されたアニメーション映画を私は観たことがある。ジョバンニとカンパネルラも猫に擬人化されて登場したのであった。
私はアニメーション映画は数本しか観ていないが、上記したものは今でも印象深く記憶している。何年頃の作品だったかをネットで調べてみたら、1985年だと分かった。
スタッフは下記だった。
監督:杉井ギサブロー
原案:ますむらひろし
脚本:別役実
音楽:細野晴臣
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宮沢賢治の作品の中で此の童話が私は最も好きだが、この童話に底流している或る哀しさや孤独性は猫というキャラクターによって、より昇華されているように私には思われた。
猫という生きものは、飼ったことのある人なら分かるだろうが、人間( 飼い主 )と一定の距離をおく孤独性を内に秘めている。また、それゆえの或る種の翳(かげ)も秘めている。その点、犬という生きものとは全くと言ってよいほど異なる。
もし此のアニメが犬に擬人化されていたならば、此の童話から受ける私の感想は・・・以下に書くが・・・全く別なモノとなっていただろう。
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この童話において銀河鉄道とは此岸から彼岸へと向かう鉄道列車だと私は想像する。
その列車に乗る人たちは冥界へと旅立つ人々に私には見えるのだ。
この童話に底流しているものは先に書いたように『哀しさ』と『孤独』なのだが、それらは一言をもって換言すれば『悲哀』だとも言える。
思えば、人の感情において『悲哀』ほど微妙にして陰翳深いものはない。
オスカー・ワイルドは『獄中記』において悲哀について以下のように書いている。
『悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴き出す傷痕である。否、愛の手が触れる時すらも、痛苦でこそなけれ血が滲むものである。(阿部知二訳)
 冥界へと旅立つ人々は自身の現生を顧みて多かれ少なかれ、其のような悲哀を感じているはずである。
やはりカンパネルラも彼なりに、そうであったろうし、ジョバンニは此岸に戻るにしても彼が再び銀河鉄道の旅人になるときには、そうであるのだろう。
いずれにしても此の童話の静謐さは、このような悲哀にある。
そして、我々、いきものは全て、いつかは此の銀河鉄道の乗客となる。
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私は夜空を見上げたとき、遠い遠い銀河の向こうに一つの列車が走りすぎていく小さな姿を見つけることができる。


2015年2月9日月曜日

縄文語による「姫神」の音楽

ネットで以下の記事を見つけた。
この記事によると姫神が縄文語で歌っているそうだ。
そこでYou Tube を検索したらあった。
(因みに私は姫神のファン)
以下が『神々の詩』(姫神)
不思議なことに、此の姫神での縄文語を聴いているとヤノマミ族の言葉に似ている感じがしてきる。それは、こちらの錯覚だろうが、その錯覚は恐らく上の記事の人が書いているように、『その響きは素朴』に依るものだろう。

2015年2月8日日曜日

ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる~

掲題のドキュメンタリーは数年前だったか、NHKスペシャルとして放送された。
その際、私は其れを観たのだが、或る機会により劇場版DVDを観ることとなった。

今回、再見しても強烈な印象を受けた。

特に印象的だったのは、ヤノマミの少女が乳児の子猿に自分の唾液を与える場面だった。親が捕獲された此の子猿に自分の匂いを覚えさせるのだと彼女は言った。

このような行為は他の動物にも見られるもので決して特異な行為ではないが、しかし此のときの少女の笑みは明らかに『生きもの』のもつ『やさしさ』に満ちていて何とも美しかった。

この少女は処女であったが、その後、妊娠し初産をする様子も記録されていた。深い森翳の中で命を生む。へその緒がついた状態(=精霊)のまま返すか、ヤノマミ(=人間)の子供として育てるかの選択を其の少女は迫られる。それがヤノマミ族の掟なのだ。

精霊のまま返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白アリのアリ塚に放り込む。その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて精霊になったことを神に報告する。 また、寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われる。
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ヤノマミ族のシャーマンの言葉:
「ジャガー、ワニ、バク、サル、・・・天は精霊の家だ 人間も死ねば天に上り、精霊になる。地上の死は死ではない。魂は死なず精霊となる。精霊もやがて死ぬ 最後に男はハエやアリとなって地上に戻り、死骸に群がり肉を運ぶ。女は最後にノミやダニとなる。
地上で生き、天で生き、虫となって消える。
ナプも知らねばならない 誰もが同じ定めを生きる。
(ナプとはヤマノミ以下の存在のこと」
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思えば、ヤノマミ族の死生観は、現在を生きる人たち( 少なくとも私 )の死生観とは随分異なる。好むと好まざるとに関らず、私たちは近代文明の「洗礼」を受けている。

率直に言って其の功罪は恐らく功の部分が大きいと言わざるを得ないと私は思う。 しかし、罪の部分は? 其れは決して少ないと言えないとも思う。

それは『死』について最も顕著に露呈されると私は思う。そのことを端的に象徴的に表現すれば以下のように言える、即ち、

少なくともヤノマミ族たちには、孤立死も孤独死もなかっただろう。
なぜなら彼らには、人間というより、生きものにとって最も大事な『絆(きずな)』があったに相違ないからだ。

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ヤノマミ族について。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%9E%E3%83%9F%E6%97%8F

劇場版DVDについて。↓
http://columbia.jp/yanomami/

参考記事↓
http://matome.naver.jp/odai/2138698204108838301