どういうわけか私は『二十憶光年の孤独』という言葉を最近しきりに想う。
私の頭というか心というか胸のあたりというか、ともかく此の言葉が私のうちに淋しく去来するのだ。
この言葉が谷川俊太郎の詩の題名であることは私は以前より知っていが、その詩そのものは何も知らなかった。
しかし、この言葉が、最近、或る悲しい色彩をもって私のなかに切実に去来する。
***
「まっちゃん」という人が先日、乳がんで亡くなったことを家内から知らされた。
この人は家内の遠縁の人で私は逢ったこともなければ声も聞いたこともない人だった。しかし此の人が必ずしも幸福円満な境遇にはいなかった、ということは家内から以前より聞いてはいた。なにか複雑な事情があって此の人は上京し、裁縫で、一人、身を立てていたようだ。
この人が裁縫学校に入る際、保証人が必要だったらしく、それを頼む近縁の人が見当たらないので、断われる不安をいだきながら都内の家内の実家に頼ってきたとのこと。
家内はその頃実家の家事をしていたのだが、温かいお茶一杯を此の人にもてなしたのだろう。それが此の人には大変、嬉しかったらしく、その後、なにかにつけて誰彼に其れをもらしていたようだ。
この話は実は私が家内と結婚する前のことだが、私共が現在地に引っ越してから何年か後に、この人から毎年、夏、『ほうずき』が私の家に届くようになった。
この人は『ほうずき市』の日、浅草寺に詣で、私共夫妻の健康を祈願していたという。
『暖かいお茶一杯』が余程此の人を慰めていたのだろう。
送られてくる『ほうずき』を私は見ながら、随分、「まっちゃん」という人は律儀な人だと思ったものだ。
そして『情けは人のためならず・・・』という言葉を思い出しながら、『回り回っていく情け』は「まっちゃん」にも回っていたに違いないと今更ながら私は思う。
「まっちゃん」は乳がんの手術を拒否し続けたという。そして天命を全うした。
私には知らない人ではあったけれど、この人の死は、やはり私には決して浅くはない痛みを残している。
「まっちゃん」の人生は、やはり、「二十億光年の孤独」という言葉が似合うような気が私はする。
この詩をネットで調べてみると下記のような詩だった。
この詩の意味するところが何であれ、「まっちゃん」のみならず、「いきもの」全ての生や死の孤独は、「二十億光年の孤独」という比喩が私には何かぴったりとするような気がする。
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二十億光年の孤独 谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
2015年5月15日金曜日
2015年5月10日日曜日
葛城文子のこと
『戸田家の兄妹』(小津安二郎監督)という映画がある。1941年(昭和16年)公開のものだが、この映画に葛城文子が、戸田家の兄(佐分利信)、妹(高峰三枝子)の母親役として出演している。
Wikiwで調べると葛城文子は、1871年に生まれ、1945年に亡くなっている。
この映画に出演したときは70歳であった。彼女の逝去は其の4年後になる。
私は掲題の映画の葛城恵子に惹かれる。なぜだろうか?
***
私は世評高い『東京物語』は好かない。説教臭いからだ。
或る映画マニアが以下のようなことをネットに書いていた。いわく、
『東京物語の、あの長男、長女を見て我慢がならんぞ、と思った人は戸田家の兄妹を見てスッキリしてください』と。上手いコメントだと私は大いに愉快になった。
***
『戸田家の兄妹』は、私が子供の頃観た映画『鞍馬天狗』等、あるいは少年雑誌に掲載されていた懐かしき漫画同様に、単純明快な勧善懲悪の映画である。
そこには東京物語の人生の晦渋さはなく、勧善懲悪の明快がある。私が此の映画を好む所以は其処にある。
***
私が葛城文子に惹かれる理由の一つは其のあたりにある。
即ち、子供たちに「たらい回し」される母親の寂寞さは、東山千栄子より葛城文子は遥かに少ないと言えるし、また息子たる佐分利信の大活躍によって葛城文子はハッピーエンドとなる。
私が葛城文子に惹かれるのは、彼女に約束された老後の幸せ故なのだ。
***
私が葛城文子に惹かれる理由は其れだけではない。上に書いたのは映画の話だが、私の現実の此の世における母方の「おばぁちゃん」を、私は葛城文子に重ねて見てしまうのだ。我が人生を顧みて、私が無垢に懐いたのは此の「おばぁちゃん」だった。
***
人は大人になるにつれて此の無垢さを失っていく。
この無垢さが如何に貴重なものであったか、私は馬齢を重ねるうちに痛切に感ずるにようになっている。
私の幼き日の此の「おばぁちゃん」が『戸田家の兄妹』の葛城文子に他ならないのだ。
ps. 『戸田家の兄妹』の佐分利信は、私の最も好きな映画の役どころの一つだ。
Wikiwで調べると葛城文子は、1871年に生まれ、1945年に亡くなっている。
この映画に出演したときは70歳であった。彼女の逝去は其の4年後になる。
私は掲題の映画の葛城恵子に惹かれる。なぜだろうか?
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私は世評高い『東京物語』は好かない。説教臭いからだ。
或る映画マニアが以下のようなことをネットに書いていた。いわく、
『東京物語の、あの長男、長女を見て我慢がならんぞ、と思った人は戸田家の兄妹を見てスッキリしてください』と。上手いコメントだと私は大いに愉快になった。
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『戸田家の兄妹』は、私が子供の頃観た映画『鞍馬天狗』等、あるいは少年雑誌に掲載されていた懐かしき漫画同様に、単純明快な勧善懲悪の映画である。
そこには東京物語の人生の晦渋さはなく、勧善懲悪の明快がある。私が此の映画を好む所以は其処にある。
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私が葛城文子に惹かれる理由の一つは其のあたりにある。
即ち、子供たちに「たらい回し」される母親の寂寞さは、東山千栄子より葛城文子は遥かに少ないと言えるし、また息子たる佐分利信の大活躍によって葛城文子はハッピーエンドとなる。
私が葛城文子に惹かれるのは、彼女に約束された老後の幸せ故なのだ。
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私が葛城文子に惹かれる理由は其れだけではない。上に書いたのは映画の話だが、私の現実の此の世における母方の「おばぁちゃん」を、私は葛城文子に重ねて見てしまうのだ。我が人生を顧みて、私が無垢に懐いたのは此の「おばぁちゃん」だった。
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人は大人になるにつれて此の無垢さを失っていく。
この無垢さが如何に貴重なものであったか、私は馬齢を重ねるうちに痛切に感ずるにようになっている。
私の幼き日の此の「おばぁちゃん」が『戸田家の兄妹』の葛城文子に他ならないのだ。
ps. 『戸田家の兄妹』の佐分利信は、私の最も好きな映画の役どころの一つだ。
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