先日、NHK・TVで、この人についての番組を放送していたが、その番組みていて、一体、此の人は日本をどうしたいのか私は訳が分からなかった。
天皇がどうのこうと言ってたけど、さっぱし何のことやら私には分からなかった。
ボディビルなんかして・・・石原慎太郎によると、これはフェイクな肉体化なんだそうだが。
そういえば、石原慎太郎のコメントは此の番組にはなかったが、彼に発言させたかったな。NHKでは無理か。
石原慎太郎の三島由紀夫論のほうが私には正鵠をえていると思うんだが。
『金閣寺』など、ちっとも私も面白くないし。
この番組で或る人は三島氏は『大空虚』なんだそうで、それも訳がわからなかった。
要するに、三島って人はピエロだったんだろう。
この番組に出た他の或る人は、この人は世間にアカンベェーをしていたんだと言っていたが、そこらへんが真相かも知れない。
2015年1月27日火曜日
2015年1月17日土曜日
科学者の教養のこと
私は、いわゆる職人気質という気質が好きだ。当今風に言えばエンジニア気質とも言えるだろう。
その気質は、己の技に己が納得するまで拘泥し続ける。他人の評価なども気にしない自己満足への追及者で、一種のオタクと言ってもよい。私はそういう人が好きだ。
こういう人は、己の技の対象以外には目もくれない。「人間性」と言った空疎になりがちなモノにも一切関心はない。ただ己の技のみに徹底的にこだわる。
では科学者とはどういう人たちか? 上に書いた職人(技能者orエンジニアorオタク)とは、ちょっと違うように私は思っている。
科学者なる人たちは、単に職人であっては困るな、と私は思っている。
科学者の定義を此処でキチントしなければ話が曖昧になるが、ここでは、社会的に影響を及ぼすような仕事をしている理工系の人たちとでもしておこう。
このような人たちは、その仕事の結果が社会に影響を及ぼすわけだから、自己満足なオタクだけであっては、困ると私は思っている。
つまり自己の技のみ拘泥しているだけでは困る。何故なら其の技が他人(即ち社会)に影響を与えるのだから。
このような理工系の人たちには、彼等の「技」以外のモノにも理解してもらわなければならない。そのようなモノが、教養と呼ばれるべきモノだ。では、そのような教養とは何か?
要するに其のような教養とは、『人の悲しみや喜びや苦悩とも呼ばれる人間としての感情』を理解できる能力をもっていることだと私は思う。
職人は結果として其のような教養をもつことは必ずしも必須ではないが、科学者には必須な能力だ。
科学者に必須なことは、技、知識、業績等よりも何よりも、人の心情を理解する能力である、と私は思っている。
その気質は、己の技に己が納得するまで拘泥し続ける。他人の評価なども気にしない自己満足への追及者で、一種のオタクと言ってもよい。私はそういう人が好きだ。
こういう人は、己の技の対象以外には目もくれない。「人間性」と言った空疎になりがちなモノにも一切関心はない。ただ己の技のみに徹底的にこだわる。
では科学者とはどういう人たちか? 上に書いた職人(技能者orエンジニアorオタク)とは、ちょっと違うように私は思っている。
科学者なる人たちは、単に職人であっては困るな、と私は思っている。
科学者の定義を此処でキチントしなければ話が曖昧になるが、ここでは、社会的に影響を及ぼすような仕事をしている理工系の人たちとでもしておこう。
このような人たちは、その仕事の結果が社会に影響を及ぼすわけだから、自己満足なオタクだけであっては、困ると私は思っている。
つまり自己の技のみ拘泥しているだけでは困る。何故なら其の技が他人(即ち社会)に影響を与えるのだから。
このような理工系の人たちには、彼等の「技」以外のモノにも理解してもらわなければならない。そのようなモノが、教養と呼ばれるべきモノだ。では、そのような教養とは何か?
要するに其のような教養とは、『人の悲しみや喜びや苦悩とも呼ばれる人間としての感情』を理解できる能力をもっていることだと私は思う。
職人は結果として其のような教養をもつことは必ずしも必須ではないが、科学者には必須な能力だ。
科学者に必須なことは、技、知識、業績等よりも何よりも、人の心情を理解する能力である、と私は思っている。
2015年1月12日月曜日
櫛巻きお藤さんの唄への懐かしさ
私の大好き映画に『丹下作善余話・百万両の壺』(1935年、山中貞夫)がある。
この映画で、矢場の櫛巻お藤姉さんが長火鉢を前に三味線を爪弾きながら唄う一連の場面が、私はとりわけ好きである。
https://www.youtube.com/watch?v=dzN6UGPKJo8
此の映画の丹下作善こと大河内伝次郎もさることながら、お藤さんこと新橋喜代三姉さんも私は大ファンで、江戸下町の「小股の切れ上がった」姉さんとは、こういう人を言うのだろう。
山本周五郎の小説にも、よく登場する人物像であって、私の最も好む人間のタイプであるが、とても懐かしい気がする。
私は現在もっぱら漫画・サザエさんを図書館から借りて読んでいる、というより見ているのだが、此の映画も漫画の世界であって、上記した私の郷愁は、我が人生にとって最も幸福だった漫画乱読時代への郷愁と言える。
この映画で、矢場の櫛巻お藤姉さんが長火鉢を前に三味線を爪弾きながら唄う一連の場面が、私はとりわけ好きである。
https://www.youtube.com/watch?v=dzN6UGPKJo8
此の映画の丹下作善こと大河内伝次郎もさることながら、お藤さんこと新橋喜代三姉さんも私は大ファンで、江戸下町の「小股の切れ上がった」姉さんとは、こういう人を言うのだろう。
山本周五郎の小説にも、よく登場する人物像であって、私の最も好む人間のタイプであるが、とても懐かしい気がする。
私は現在もっぱら漫画・サザエさんを図書館から借りて読んでいる、というより見ているのだが、此の映画も漫画の世界であって、上記した私の郷愁は、我が人生にとって最も幸福だった漫画乱読時代への郷愁と言える。
2015年1月11日日曜日
日本人横綱なんていらない
というか、横綱に人種など、どうでもよい。
私はスポーツには関心がない人間だが、大相撲のテレビ中継は暇にまかせて毎場所みている。
今日から初場所が始まるが、その関心の一つは白鵬の優勝回数が大鵬の其れを超えるかどうかだろう。遅かれ早かれ超えることは確実で、我々は白鵬という天才をリアルタイルで見る幸運な時代に生きている。ちょうど将棋の天才・羽生善治をリアルタイムでみることができるように。
天才たちをリアルタイムでみることができるということは、同時代人にとって幸運なことなのだ。私は残念ながら天才・双葉山をリアルタイムでみることはできなかった。
***
相撲というモノは日本古来の伝統を受け継いでいることは言うまでもない。そういう意味では能・歌舞伎と同様に伝統芸能と何ら変わらない。
だからといって、その伝統芸能の担い手が日本人でなければならない理由は、少なくとも私には見つけることができない。人種は少なくとも私には其の理由にはならない。
今や大相撲はモンゴルの人たちが大活躍している。結構なことではないか。
一部には「日本人であること」にこだわる人も少なからずいるようだ。
モンゴル人他ガイジン(嫌な言葉だ)が関取の多数を占めるが故に、なにかと嘆く。
私はその嘆きを耳にするとき或る不愉快さを常に感ずる。その不愉快とは?
要するに、嘆く人間たちの度量の狭さだ。人種差別とまでもは言わないが、その萌芽を私は感じてしまう。
***
いまさら言うまでもなく、大相撲は畢竟勝負の世界である。強い者が勝ち弱い者は負ける。そこには人種の壁は基本的にない。
私自身の好みから言えば、日本人の力士達より外国の力士達に応援したいし、している。彼らは始めから、いろいろなハンディーを負っているからだ。一種の判官贔屓だ。
日本人力士達よ、悔しかったら、勝て!! コトは単純である。
***
さて、もしかしたら私は此の大相撲において「歴史」を、この目で目撃できるできるかも知れない。それは白鵬が双葉山を超える一瞬だ。そのスリリングな光景には人種の差など「チイセー、チイセー」。
私はスポーツには関心がない人間だが、大相撲のテレビ中継は暇にまかせて毎場所みている。
今日から初場所が始まるが、その関心の一つは白鵬の優勝回数が大鵬の其れを超えるかどうかだろう。遅かれ早かれ超えることは確実で、我々は白鵬という天才をリアルタイルで見る幸運な時代に生きている。ちょうど将棋の天才・羽生善治をリアルタイムでみることができるように。
天才たちをリアルタイムでみることができるということは、同時代人にとって幸運なことなのだ。私は残念ながら天才・双葉山をリアルタイムでみることはできなかった。
***
相撲というモノは日本古来の伝統を受け継いでいることは言うまでもない。そういう意味では能・歌舞伎と同様に伝統芸能と何ら変わらない。
だからといって、その伝統芸能の担い手が日本人でなければならない理由は、少なくとも私には見つけることができない。人種は少なくとも私には其の理由にはならない。
今や大相撲はモンゴルの人たちが大活躍している。結構なことではないか。
一部には「日本人であること」にこだわる人も少なからずいるようだ。
モンゴル人他ガイジン(嫌な言葉だ)が関取の多数を占めるが故に、なにかと嘆く。
私はその嘆きを耳にするとき或る不愉快さを常に感ずる。その不愉快とは?
要するに、嘆く人間たちの度量の狭さだ。人種差別とまでもは言わないが、その萌芽を私は感じてしまう。
***
いまさら言うまでもなく、大相撲は畢竟勝負の世界である。強い者が勝ち弱い者は負ける。そこには人種の壁は基本的にない。
私自身の好みから言えば、日本人の力士達より外国の力士達に応援したいし、している。彼らは始めから、いろいろなハンディーを負っているからだ。一種の判官贔屓だ。
日本人力士達よ、悔しかったら、勝て!! コトは単純である。
***
さて、もしかしたら私は此の大相撲において「歴史」を、この目で目撃できるできるかも知れない。それは白鵬が双葉山を超える一瞬だ。そのスリリングな光景には人種の差など「チイセー、チイセー」。
2015年1月8日木曜日
『磯野家の謎』(東京サザエさん学会)
掲題の本は平成4年に出版されベストセラーとなった。
私は先日、サザエさんが登場する詩『花冷え』について書いたが、時代的に推定すると此の詩の作者は掲題の本に触発されたかもしれない。ということに私は思いついた。
そうすると此の詩の「個性」も半減するのだが、それにしても依然として私は此の詩の全容を知りたいのだ。
その念願が達成する可能性は限りなくゼロに近いが、先日此の日記を書いたので、私の頭の隅に隠れている此の詩の記憶を丹念に堀起こしてみた。
この詩の作者は女性であることは確かだから、此の詩の主題は、『マスオの磯野家における婿という立場が如何なるモノであったか』という点にあったらしい、ということにウッスラと気づいた。
『嫁対姑』は永遠の「問題」だが、『婿対姑』も永遠の「問題」だと言える。この種の「問題」は、特に女性たちには敏感故に女性たる作者は、あえて此の「問題」をバロディ化したのだろう。
この詩の作者は、一見、桜花の盛りのように温かそうな磯野家における入り婿マスオの真情を探りに訪れたらしい。
その結果、マスオ氏は必ずしも磯野家において居心地が良いものではないと作者は直観したらしい。
この詩のタイトルが『花冷え』であることは其れを暗示させている。
しかし、この点については『磯野家の謎』では解いていない。
***
詩の作者である「私」が磯野家を訪れたときは、サザエさんは不在であったが、「私」が磯野家を去り帰宅する途中でサザエさんが追いかけてきて、夕陽を背に「また、いらしてくだい」と「私」に呼びかけるサザエさんの姿は、やはり磯野家の、象徴としての櫻花であり春であると「私」は感じたに違いない。
たとえマスオ氏が「花冷え」であったとしても。
私は先日、サザエさんが登場する詩『花冷え』について書いたが、時代的に推定すると此の詩の作者は掲題の本に触発されたかもしれない。ということに私は思いついた。
そうすると此の詩の「個性」も半減するのだが、それにしても依然として私は此の詩の全容を知りたいのだ。
その念願が達成する可能性は限りなくゼロに近いが、先日此の日記を書いたので、私の頭の隅に隠れている此の詩の記憶を丹念に堀起こしてみた。
この詩の作者は女性であることは確かだから、此の詩の主題は、『マスオの磯野家における婿という立場が如何なるモノであったか』という点にあったらしい、ということにウッスラと気づいた。
『嫁対姑』は永遠の「問題」だが、『婿対姑』も永遠の「問題」だと言える。この種の「問題」は、特に女性たちには敏感故に女性たる作者は、あえて此の「問題」をバロディ化したのだろう。
この詩の作者は、一見、桜花の盛りのように温かそうな磯野家における入り婿マスオの真情を探りに訪れたらしい。
その結果、マスオ氏は必ずしも磯野家において居心地が良いものではないと作者は直観したらしい。
この詩のタイトルが『花冷え』であることは其れを暗示させている。
しかし、この点については『磯野家の謎』では解いていない。
***
詩の作者である「私」が磯野家を訪れたときは、サザエさんは不在であったが、「私」が磯野家を去り帰宅する途中でサザエさんが追いかけてきて、夕陽を背に「また、いらしてくだい」と「私」に呼びかけるサザエさんの姿は、やはり磯野家の、象徴としての櫻花であり春であると「私」は感じたに違いない。
たとえマスオ氏が「花冷え」であったとしても。
2015年1月5日月曜日
サザエさんと『花冷え』
半世紀程前、NECが運営するパソコン通信・PC-VAN・・・懐かしい言葉だ・・・があった。その中のサービスに電子掲示板があった。そして此のサイトで言うところのコミュニィティが種々あって、「BOOKS」も其の一つであった。たぶん、このサイトでもご存知な方も多いだろう。
当時、私は此の「BOOKS」に盛んに書き込みをしていたものだが、その書き込みの常連にモリヤマというHNの方がおられた。察するに此の方は私よりも年配の方で、現在ご健在ならば90代であろうかと思う。
この方の書き込み記事の数は少なかったが、しかし其の記事には表に直接には表われない文芸関連の造詣の深さがチラチラと窺い知れたものだった。
この方は或る同人誌を主催されているということを後日私は知って、なるほどそうかと合点したものだった。
あるとき、なんのハズミだったか、この方が其の同人誌の会員の詩を紹介されたことがあった。確か女性の会員の方の詩の断片だったが、その詩を私は今でも忘れられない。
以下の内容の詩だった。
------------------------------
「私」がサザエさん宅を訪問する。(なんの用事だったかは其の詩には書かれていなかったと記憶している) ところが生憎サザエさんは不在であったので「私」は帰宅するのだが、その途中、サザエさんが追いかけてきて、夕日を背景に、「また、いらしてください」と私に呼びかける・・・
-----------------------------
そんな内容の詩だった。私は此の詩を大変興味深く感じたものだった。
サザエさんという、よく知られた架空の人物を登場させたところも面白く、或る年代の人々にとっては、アニメではない漫画サザエさんは何らかの思い入れがあるはずであり・・・それは私の場合は郷愁であるのだが・・・、それが巧みに詩という文芸に取り組まれていることに私は斬新さを感じたものだ。この詩のタイトルは私の記憶違いでなければ『花冷え』だった。
***
私がPC-VANから離れた後でも、この詩を忘れることはなかった。もう一度此の詩の全容を知りたくて、何度もネットで検索したものだったが発見できなかった。その頃はモリヤマさんとの交流も途絶えていたからだ。
思えば現代詩人・山本陽子の存在も、モリヤマさんから教えられたものだった。
***
先に書いたように、アニメではない漫画・サザエさんには、私の場合、或る郷愁がある。サザエさんには映画『男はつらいよ』がそうであるように、期せずして、時代の流れというものが背景に写しとられている。各人の、其の人だけしかない個人史が、『サザエさん』なり『男はつらいよ』には刻みこまれているのだ。
***
というわけで、私は我が町の図書館から漫画・サザエさんを借りることにした。全巻30冊程度あるのだが少しずつ見てみようと思っている。
***
ところでモリヤマさんは現在健在だろうか・・・
当時、私は此の「BOOKS」に盛んに書き込みをしていたものだが、その書き込みの常連にモリヤマというHNの方がおられた。察するに此の方は私よりも年配の方で、現在ご健在ならば90代であろうかと思う。
この方の書き込み記事の数は少なかったが、しかし其の記事には表に直接には表われない文芸関連の造詣の深さがチラチラと窺い知れたものだった。
この方は或る同人誌を主催されているということを後日私は知って、なるほどそうかと合点したものだった。
あるとき、なんのハズミだったか、この方が其の同人誌の会員の詩を紹介されたことがあった。確か女性の会員の方の詩の断片だったが、その詩を私は今でも忘れられない。
以下の内容の詩だった。
------------------------------
「私」がサザエさん宅を訪問する。(なんの用事だったかは其の詩には書かれていなかったと記憶している) ところが生憎サザエさんは不在であったので「私」は帰宅するのだが、その途中、サザエさんが追いかけてきて、夕日を背景に、「また、いらしてください」と私に呼びかける・・・
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そんな内容の詩だった。私は此の詩を大変興味深く感じたものだった。
サザエさんという、よく知られた架空の人物を登場させたところも面白く、或る年代の人々にとっては、アニメではない漫画サザエさんは何らかの思い入れがあるはずであり・・・それは私の場合は郷愁であるのだが・・・、それが巧みに詩という文芸に取り組まれていることに私は斬新さを感じたものだ。この詩のタイトルは私の記憶違いでなければ『花冷え』だった。
***
私がPC-VANから離れた後でも、この詩を忘れることはなかった。もう一度此の詩の全容を知りたくて、何度もネットで検索したものだったが発見できなかった。その頃はモリヤマさんとの交流も途絶えていたからだ。
思えば現代詩人・山本陽子の存在も、モリヤマさんから教えられたものだった。
***
先に書いたように、アニメではない漫画・サザエさんには、私の場合、或る郷愁がある。サザエさんには映画『男はつらいよ』がそうであるように、期せずして、時代の流れというものが背景に写しとられている。各人の、其の人だけしかない個人史が、『サザエさん』なり『男はつらいよ』には刻みこまれているのだ。
***
というわけで、私は我が町の図書館から漫画・サザエさんを借りることにした。全巻30冊程度あるのだが少しずつ見てみようと思っている。
***
ところでモリヤマさんは現在健在だろうか・・・
2015年1月4日日曜日
10年後の日本国
『経済からみた30年後の日本はどうなるか』という趣旨の正月のTV定例番組(らしい)を放送していたのでみた。数名の其の道の識者たちが喧々諤々と議論していた。
当方は経済も全く無知であるから、彼らたちの説明を鵜呑みにせざるを得ないのだが、要するに、「このままの状態を無為無策で続ければ少なくも10年後には日本国は破綻する」という点では彼らの一致した見解だった。たぶん、これは正解だろう。
私は此のテの議論を聞いているとき、いつも思うのは・・・勿論、彼らも充分承知の上での議論だろうが・・・何も此の国を破綻させるのは経済のみではない。
素人の無責任な予想だが、此の国を破綻に導く最も確率の高いカタストロフィーは、経済云々よりもむしろ予想外の自然災害だろうと私は思っている。この超巨大自然災害の到来については、TV番組でも盛んに放送している。
例えば東南海大地震の発生は今後30年後60~70%だという。確率というものは、或る意味当てにはならないもので、今後30年は今後10年かも知れないし、明日かも知れない。この点については我々は数年前の東日本大地震で思い知らさせているではないか。
ともかく、このようなカタストロフィーの恐ろしさは、人間の其の予防対策は・・・勿論、関係者はそれなりの対策をしているのだろうが・・・実質的に恐らく無効に近い点にある。
だから、上に書いた正月番組の議論も、無意味とまでは言わないが、少なくとも私には、空疎に聞こえなくもないのだ。「世の中は地獄の上の花見、ならぬ議論かな」である。
では、我々はどうしたらよいのか。その問いに対する最も有効な答えは以下であろう。すなわち
「そのような巨大自然災害はない『かのように』生きる」ことだ。
---------------
**年**月の光景が以下のような状態にならないとは誰も言えない。尤も此れは自然災害ではないが光景は似たようなモノになるだろう。
(注:食事中の人は見ないほうがよい)
https://www.youtube.com/watch?v=vO4Wtc2DOhY
当方は経済も全く無知であるから、彼らたちの説明を鵜呑みにせざるを得ないのだが、要するに、「このままの状態を無為無策で続ければ少なくも10年後には日本国は破綻する」という点では彼らの一致した見解だった。たぶん、これは正解だろう。
私は此のテの議論を聞いているとき、いつも思うのは・・・勿論、彼らも充分承知の上での議論だろうが・・・何も此の国を破綻させるのは経済のみではない。
素人の無責任な予想だが、此の国を破綻に導く最も確率の高いカタストロフィーは、経済云々よりもむしろ予想外の自然災害だろうと私は思っている。この超巨大自然災害の到来については、TV番組でも盛んに放送している。
例えば東南海大地震の発生は今後30年後60~70%だという。確率というものは、或る意味当てにはならないもので、今後30年は今後10年かも知れないし、明日かも知れない。この点については我々は数年前の東日本大地震で思い知らさせているではないか。
ともかく、このようなカタストロフィーの恐ろしさは、人間の其の予防対策は・・・勿論、関係者はそれなりの対策をしているのだろうが・・・実質的に恐らく無効に近い点にある。
だから、上に書いた正月番組の議論も、無意味とまでは言わないが、少なくとも私には、空疎に聞こえなくもないのだ。「世の中は地獄の上の花見、ならぬ議論かな」である。
では、我々はどうしたらよいのか。その問いに対する最も有効な答えは以下であろう。すなわち
「そのような巨大自然災害はない『かのように』生きる」ことだ。
---------------
**年**月の光景が以下のような状態にならないとは誰も言えない。尤も此れは自然災害ではないが光景は似たようなモノになるだろう。
(注:食事中の人は見ないほうがよい)
https://www.youtube.com/watch?v=vO4Wtc2DOhY
2015年1月2日金曜日
三島由紀夫の切腹
昨年の暮れ、或るサイトでのポイントが1000になったというメールが届いた。使用期限切れになるというコメントがあり、1000円以下の商品が貰えると書いてあった。
その該当商品を調べると、別に欲しい物はなかったが、雑誌・文芸春秋(1月号)の電子版が貰えるそうなので、それを貰う・・・と言ってもPCで閲覧できるだけだが・・・ことにした。
当該雑誌の1月号は、戦後70年記念特大号と表紙にPRしてあって、高倉健の遺書等が掲載されている。読んだ人も多いだろう。
高倉健の遺書は、なかなか面白かった。
面白いと言えば語弊があるが、私は生前の高倉健という俳優さんには興味はなかったが、この遺書を読んで遅まきながら此の人に或るシンパシィを感じた。
***
しかし、より興味深い記事は、『三島由紀自刃』という副タイトルが書かれた『介錯した男の後半生』であった。
例の三島由紀夫「切腹事件」は昭和45年だったが、このサイトの利用者でリアルタイムで知っている人も多いかもしれない。
私が今でも覚えていることは司馬遼太郎の此の「事件」に対するコメントだった。
司馬遼太郎は此の事件は政治的事件ではなく文化的事件だという趣旨のコメントをしていた。
確かに、そう言える「珍」事件であり、既に35年過ぎたが、政治史的意味は皆無だろう。意味を見出すとすれば其れは日本文化史においてだろうし、また三島由紀夫文学史においてだろう。
***
この記事で私が興味深かったのは、介錯した男の後半生よりも、例の切腹現場の様子であった。割腹及び介錯の凄惨な現場記録は、背筋が寒くなるものがある。
三島の介錯は森田必勝がしたが、三島の首は三太刀を振るっても切断しなかったらしい。
事件後の解剖所見も此の記事に引用されているが、切腹なる行為は映画等で見るような「安易な」ものではないらしい。三島の切腹は「一人で死ぬ場合の切り方」なんだそうで、古式にのっとった所作ではなかったらしい。
正座の状態から切腹した体は前に落ちるか、後ろに反り返るかするらしい。
三島の場合は、あまりに深く真一文字に腹を切っているため、神経の極度の緊張から、はげしく後ろに反り返った可能性があるとのこと。故に介錯によって、一刀で「きれいに」首が切断しなかったということだろうか。
いずれにしても、切腹・介錯という現代からみれば野蛮な自殺行為は、必ずしも見栄えの良いものではなかったようだ。
尤も、人の死にかたは例えば交通事故のように、現代においては切腹よりも凄惨極まる場合があるだろうから、そういう意味では昔も今も変わらないと言えよう。
気の弱い小生は切腹など論外で、なんとか見栄えよくスッキリと逝きたいものだ。
***
三島由紀夫の作品と言えば、私は数十年前、入院先の食堂に誰かが置き残していった『金閣寺』しか読んだことがない。三島由紀夫ファンの人には不愉快かも知れぬが、私には退屈な小説であった。好みは人それぞれだから仕方がない。
その該当商品を調べると、別に欲しい物はなかったが、雑誌・文芸春秋(1月号)の電子版が貰えるそうなので、それを貰う・・・と言ってもPCで閲覧できるだけだが・・・ことにした。
当該雑誌の1月号は、戦後70年記念特大号と表紙にPRしてあって、高倉健の遺書等が掲載されている。読んだ人も多いだろう。
高倉健の遺書は、なかなか面白かった。
面白いと言えば語弊があるが、私は生前の高倉健という俳優さんには興味はなかったが、この遺書を読んで遅まきながら此の人に或るシンパシィを感じた。
***
しかし、より興味深い記事は、『三島由紀自刃』という副タイトルが書かれた『介錯した男の後半生』であった。
例の三島由紀夫「切腹事件」は昭和45年だったが、このサイトの利用者でリアルタイムで知っている人も多いかもしれない。
私が今でも覚えていることは司馬遼太郎の此の「事件」に対するコメントだった。
司馬遼太郎は此の事件は政治的事件ではなく文化的事件だという趣旨のコメントをしていた。
確かに、そう言える「珍」事件であり、既に35年過ぎたが、政治史的意味は皆無だろう。意味を見出すとすれば其れは日本文化史においてだろうし、また三島由紀夫文学史においてだろう。
***
この記事で私が興味深かったのは、介錯した男の後半生よりも、例の切腹現場の様子であった。割腹及び介錯の凄惨な現場記録は、背筋が寒くなるものがある。
三島の介錯は森田必勝がしたが、三島の首は三太刀を振るっても切断しなかったらしい。
事件後の解剖所見も此の記事に引用されているが、切腹なる行為は映画等で見るような「安易な」ものではないらしい。三島の切腹は「一人で死ぬ場合の切り方」なんだそうで、古式にのっとった所作ではなかったらしい。
正座の状態から切腹した体は前に落ちるか、後ろに反り返るかするらしい。
三島の場合は、あまりに深く真一文字に腹を切っているため、神経の極度の緊張から、はげしく後ろに反り返った可能性があるとのこと。故に介錯によって、一刀で「きれいに」首が切断しなかったということだろうか。
いずれにしても、切腹・介錯という現代からみれば野蛮な自殺行為は、必ずしも見栄えの良いものではなかったようだ。
尤も、人の死にかたは例えば交通事故のように、現代においては切腹よりも凄惨極まる場合があるだろうから、そういう意味では昔も今も変わらないと言えよう。
気の弱い小生は切腹など論外で、なんとか見栄えよくスッキリと逝きたいものだ。
***
三島由紀夫の作品と言えば、私は数十年前、入院先の食堂に誰かが置き残していった『金閣寺』しか読んだことがない。三島由紀夫ファンの人には不愉快かも知れぬが、私には退屈な小説であった。好みは人それぞれだから仕方がない。
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