『理性とは何か』という問題は私には手に負えない問題なので、それをタナにおいて、科学に問題を変えましょう。現代はまさに科学の時代ですよね。科学及科学技術は、好むと好まざると関わらず現代人の抗うことの出来ない、言わば『聖書』です。
現代においては学問とは事実上科学の別称ではないですか。
科学的手法こそ事実上、全ての現代の学問の研究手法ではないでしょうか。
だから現代においては、ゲーデルの不完全定理が提示している問題を考えるとき、その対象を科学に向けるのが最も現実的であり、机上の空論に終わらない議論になると私は思います。
では科学(的手法)とは何か? いわゆる科学(的手法)を重視する最初の人はガリレオですかね。ガリレオは自然観察において、理論のみならずと、その理論の正しさを証明する実験を重視した。また理論においては数学を導入した。ここらあたりは科学史の教科書にも載っていることでしょうか。
デカルトの方法序説には以下のことが書かれているそうです。
------------------------------------------------------
ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)
-----------------------------------------------------
これは、まさしく科学(的手法)だと私は思います。だからデカルトとガリレオのいずれかが科学の父であるかということは不毛なことですので、上記のデカルトの手法が科学の手法だと、ここではしておきましよう。(余談ですが'80年代頃、デカルトの還元主義が徹底的に批判されて、いわゆるニュー・サイエンスが叫ばれたのですが、結局、現在は還元主義に戻ってしまっているようです)。
この科学(的手法)の成果は今更言うまでもなく大成功をおさめ、今や、この科学的手法が全ての学問をも制覇し、現代の人類の思考をも制覇し、人類にとって絶対的な存在になりました。言わば、現在の絶対的宗教とも言えるべきものは科学です。
科学(的手法)は私は素晴らしい手法だと思います。この『宗教』は、誰にも開かれており、人類の差別とは全く無縁であり、空疎な教義など存在しないし、科学における『正しさ』は誰にも検証できるし逆に誰にも検証できないモノは『正しくない』のです。
この科学(的手法)、いいかえれば、デカルト的手法の『公平さ』が、全世界に受けられたのは当然です。今や文明化とは科学化であることだっと言っても言いすぎではないでしょう。
2014年11月18日火曜日
『ゼロリスクの罠』
掲題の本のタイトルは『ゼロリスクの罠---「怖い」が判断を狂わせる』(佐藤健太郎、光文社新書)だが、此の本の書評が或るホームページで紹介されている。
本来は此の本自体を読むのがベストだろうが、上記の書評だけでも私には充分である。
以下の文章だけでも、私自身大いに反省すべき点が指摘されていて身に染みる。いくつか引用しよう。
・「危険」は実在するが,「安全」は実在するものではない。
・つまり,「安全」とは幻影にすぎないのだ。
・私達はどう考え,どう行動すべきかについて考察するのが本書であるが,その基本思想は「現実を知り,お伽話を排除し,無知による恐怖を取り除く」ということになると思う。
・このようにして、私たちは常に7000ベクレルの内部被爆を受けているのである。このような事実を無視して、放射能を怖がっても意味がないのである。怖がるのは正しい知識を得てからでも遅くないはずだ。
***
この書評を読んだだけでも、いかに私(たち)が、己の無知により翻弄されているかが分かる。
事実、当地の新聞には当地のどこそこの放射能線量が何ベクレルかというマップ掲載されていたし、また食品の放射性物質の検査結果表が掲載されていた。
果たして、私(たち)は此の放射能汚染についても、
『お伽噺』に翻弄され無用な恐怖を煽られてはいないか?
『現実( 真の知識 )を知る』ということが如何に大切か、何よりも私(たち)自身にとって。
それを教えてくれる書評である。
本来は此の本自体を読むのがベストだろうが、上記の書評だけでも私には充分である。
以下の文章だけでも、私自身大いに反省すべき点が指摘されていて身に染みる。いくつか引用しよう。
・「危険」は実在するが,「安全」は実在するものではない。
・つまり,「安全」とは幻影にすぎないのだ。
・私達はどう考え,どう行動すべきかについて考察するのが本書であるが,その基本思想は「現実を知り,お伽話を排除し,無知による恐怖を取り除く」ということになると思う。
・このようにして、私たちは常に7000ベクレルの内部被爆を受けているのである。このような事実を無視して、放射能を怖がっても意味がないのである。怖がるのは正しい知識を得てからでも遅くないはずだ。
***
この書評を読んだだけでも、いかに私(たち)が、己の無知により翻弄されているかが分かる。
事実、当地の新聞には当地のどこそこの放射能線量が何ベクレルかというマップ掲載されていたし、また食品の放射性物質の検査結果表が掲載されていた。
果たして、私(たち)は此の放射能汚染についても、
『お伽噺』に翻弄され無用な恐怖を煽られてはいないか?
『現実( 真の知識 )を知る』ということが如何に大切か、何よりも私(たち)自身にとって。
それを教えてくれる書評である。
e^iπ=-1という公式の神秘
数学のなにものかに神秘を感ずるのは大抵、数学的才能の無い人だそうである。そうならば私は全く数学的才能は完璧に零である。いまさら、零であろうがなかろうが、どうでもよいのだが、e^πi=-1 という公式(オイラーの公式)は見れば見るほどスゴイ。美の極みと言っても言いたりない。
この公式は確か『博士の愛した数式』という映画(原作の同名の本もあるようだが)に出てきたから知っている人も多いだろう。
ここで私以上のド素人に説明を加えておくと、この公式のe,^,π,iは以下を示す(-1は、いくらなんでも知ってるだろ?。)
e は自然対数の底といって、知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な定数。πはご存知『半径に対する円周の比』で、これも、この世の自然現象の超基本的な定数。^はベキ乗の記号。iは虚数単位で、これも知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な値。これで、記号の意味は解ったことにしよう。
要するに、e,π,iは、この世の自然現象の要の要の要の・・・・超基本的な定数なのだ (これらの一個でも、もし存在しなかったら、この世の文明はおろか、この世自体も有り得ないという、凄いシロモノなのだ。)
その凄い、この世の3つの基本定数がe^πi=-1という単純極まる式で関係づけられている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
すごい、というより、まさに美の極致だね、私に言わせれば、いや私だけでなくても誰でもそう思うだろう。 ダ・ヴィンチのモナリザなど、この美に比べれば、言葉は悪いが屁みたいなもんだぜ。
え?! 美しいと思わない 。ああ、あんたは不幸な人おヒトだ。
というより、日本の数学教育根本的な大変革が必要だ!!
この公式は確か『博士の愛した数式』という映画(原作の同名の本もあるようだが)に出てきたから知っている人も多いだろう。
ここで私以上のド素人に説明を加えておくと、この公式のe,^,π,iは以下を示す(-1は、いくらなんでも知ってるだろ?。)
e は自然対数の底といって、知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な定数。πはご存知『半径に対する円周の比』で、これも、この世の自然現象の超基本的な定数。^はベキ乗の記号。iは虚数単位で、これも知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な値。これで、記号の意味は解ったことにしよう。
要するに、e,π,iは、この世の自然現象の要の要の要の・・・・超基本的な定数なのだ (これらの一個でも、もし存在しなかったら、この世の文明はおろか、この世自体も有り得ないという、凄いシロモノなのだ。)
その凄い、この世の3つの基本定数がe^πi=-1という単純極まる式で関係づけられている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
すごい、というより、まさに美の極致だね、私に言わせれば、いや私だけでなくても誰でもそう思うだろう。 ダ・ヴィンチのモナリザなど、この美に比べれば、言葉は悪いが屁みたいなもんだぜ。
え?! 美しいと思わない 。ああ、あんたは不幸な人おヒトだ。
というより、日本の数学教育根本的な大変革が必要だ!!
SNSでの孤独
趣味人倶楽部という年配者を対象にしたSNSがある。
このサイトは入会者は日記を書くことができ、入会者のほとんどは日記を書いているようだ。
このサイトに数日前に入会した或る人が退会するという。
私は、たまたま其の人の日記が目にとまり興味を覚え、その人の此のサイトでの短い期間の日記を毎日読み、かつコメントも書いてきた。
***
このようなサイトで日記を書く理由は人それぞれだろう。
ある人は自身の「何か」の披露であり、その「何か」の賛同者の出現に快感を覚え、その快感そのものが日記を書く主な動機となっていくだろう。
もし、そうでないなら、なにも此のようなサイトに書く必要もなく自身のノートなり、PCのHDへ書き込むなり、然るべきメディア等へ投稿するなりして、コト足りるはずだからだ。
このような志向の人の、SNSで日記を書くということの行為の危険性は賛同者の不在による失望感で傷つき易いということである。
つまり、そのような志向の人の日記を書く真の動機は自身の「何か」の披露ではなく、他の人との人間的な親密な接触にある。
簡略して言えば、そのような志向の人は自身の孤独感から日記を書いているのであり、その孤独感を薄めるために他の人との親密な接触を実は求めている、と断じてよいように私には思われる。
そして、このような志向の人は、その志向が強いほど、他者の反応に過敏であり、その結果、逆に他者から疎遠になりがちだと思われる。
孤独者ほど他者を求めるのだが其の孤独性が逆に他者をして敬遠させるという悪循環に陥りやすいと思われる。
勿論、他の動機で日記を書いている人も大勢いるだろう。
しかし、上記した志向の人も少なからずいると私は思う。
そういう人にとって、このサイトの「お気に入り」とか「拍手」というシステムは必ずしも良いものではない。
その理由が分からないという人は(このサイトの運営者も含めてだが)、私に云わせれば鈍感な呑気な幸せ者と言える。
なにも難解な形而上的理由などではなく、この現在の申し子である各種のIT技術は実は人間の孤独性を更に悪化させている、と私は思う。少なくとも、そういう一面を内在させている。
***
上記した事柄が事実であることは私は自信をもって断言できる。
なぜなら、私自身が上記した志向の人間に他ならないからだ。
このサイトは入会者は日記を書くことができ、入会者のほとんどは日記を書いているようだ。
このサイトに数日前に入会した或る人が退会するという。
私は、たまたま其の人の日記が目にとまり興味を覚え、その人の此のサイトでの短い期間の日記を毎日読み、かつコメントも書いてきた。
***
このようなサイトで日記を書く理由は人それぞれだろう。
ある人は自身の「何か」の披露であり、その「何か」の賛同者の出現に快感を覚え、その快感そのものが日記を書く主な動機となっていくだろう。
もし、そうでないなら、なにも此のようなサイトに書く必要もなく自身のノートなり、PCのHDへ書き込むなり、然るべきメディア等へ投稿するなりして、コト足りるはずだからだ。
このような志向の人の、SNSで日記を書くということの行為の危険性は賛同者の不在による失望感で傷つき易いということである。
つまり、そのような志向の人の日記を書く真の動機は自身の「何か」の披露ではなく、他の人との人間的な親密な接触にある。
簡略して言えば、そのような志向の人は自身の孤独感から日記を書いているのであり、その孤独感を薄めるために他の人との親密な接触を実は求めている、と断じてよいように私には思われる。
そして、このような志向の人は、その志向が強いほど、他者の反応に過敏であり、その結果、逆に他者から疎遠になりがちだと思われる。
孤独者ほど他者を求めるのだが其の孤独性が逆に他者をして敬遠させるという悪循環に陥りやすいと思われる。
勿論、他の動機で日記を書いている人も大勢いるだろう。
しかし、上記した志向の人も少なからずいると私は思う。
そういう人にとって、このサイトの「お気に入り」とか「拍手」というシステムは必ずしも良いものではない。
その理由が分からないという人は(このサイトの運営者も含めてだが)、私に云わせれば鈍感な呑気な幸せ者と言える。
なにも難解な形而上的理由などではなく、この現在の申し子である各種のIT技術は実は人間の孤独性を更に悪化させている、と私は思う。少なくとも、そういう一面を内在させている。
***
上記した事柄が事実であることは私は自信をもって断言できる。
なぜなら、私自身が上記した志向の人間に他ならないからだ。
2014年11月3日月曜日
或る人への『安楽死』に関するコメント
こんにちは。
私の妹と彼女の夫はガンで亡くなりました。果たして、どの位の医療費がかかったのか知りませんが相当な経済的負担になっただろうと推測します。
これは他人事ではなく、いつ何時、我が身の問題となるのか誰も予想もできない切実な問題の一つですね。
また此の国の医療費負担軽減化の貴方の具体的提案は傾聴に値すると思いつつ拝読しました。これは癌のみならず経済的負担の大きい疾病にも拡張すべきでしょうね。
***
国の医療費負担軽減化の対策も含めて、早急に行わなければならないことは、いわば『死に関する哲学』の構築ではないかと私は思っています。
『哲学』と言ってしまうと形而上の空論と思われがちですが、そうではなく、要するに『私たちは決して避けて通れぬ己の死に対する心構え』の構築ですね。
私はこのトピで『夏目漱石or森鴎外:死について』を書きましたが、今や『死』は鴎外・漱石のような巨人たちでの問題で留まっていたモノが、我々庶民レベルの切実な問題として迫ってきていることは誰も身近に感じていることでしょう。
特に問題となるのは精神・心の問題です。
我々人類の肉体というものは、恐らく其の寿命は長くて、せいぜい50年程度に「設計」されているのではないかと私は推測しています。
ということは我々の精神・心も、肉体にあわせて、せいぜい50年程度が寿命だと私は推測します。(私は人間という実体を「肉体」と「精神・心」に分離して考えるのはナンセンスだと思っています。人間は其れ自身一体の分離できぬ実在物だと思っています。)
医学等の発達によって、ともかく肉体は異常に・・・と言ってよいでしょう・・・生存できるようになってしまった。従って精神・心も異常に、付帯して長生きせざるを得なくなってしまった。
其れは恐らく生物種の人類としては必ずしも適切なことではないと私は推測します(但し素人判断です)。実は私は此の人類の異常なまでの長生きは生物種として人類の不幸だと捉えています。これは異論があるところでしょう。
***
しかし、とにもかくにも長生きしてしまった人間・人類を良しと正当化しなければ、人類は自滅を選ぶしかありません。(いわゆる自然の摂理が、この悪腫瘍の如く増加した人類を何らかの方法で滅亡・整理するのかも知れませんが。)
それはともかくとして、長生きしてしまった人間・人類を正当化する、なんらかの思想・哲学・社会慣習・一般常識等の形而上及び形而下の根本的な方向転換が今日及び近未来において必須な急務だと私は思います。(過去においては、疾病、戦争等が人類を「適切な数」に結果的に調整していたのだと私は思っています。皮肉と言えば皮肉ですが、其れは自然の摂理と言えなくもないでしょう。)
***
漱石が以下のように『硝子戸の中』で書いていることも其の方向転換を先取りしていると私には思えます。
『不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつゝある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて考えている。さうして其の死といふものを生よりも楽なものだとばかり信じてゐる。ある時はそれを人間として達し得る最高至高の状態だと思ふこともある。「死は生よりも尊い」』
そして『安楽死』という問題も、そのような方向転換の文脈で捉えたほうがよいと私は思っています。
2014年10月23日木曜日
ブライアン・イーノの曲と科学のこと
随分前の話だがテレビの或る科学番組で・・・その番組は確か現代物理学の一般庶民向けの解説番組だと記憶しているが・・・ブラアン・イーノの『THE
DANCE』がBGMとして流れた。
実はそのとき、私はブライアン・イーノという人を知らなかったが、そのBGMの曲は印象に残った。
その頃、私はNECのPC-VANの会員であったが、その会員の中に大変音楽好きな人がいた。その人は工学部出身の人で例の番組をみたらしかった。
そこで其の番組が話題になったとき、そのBGMはブライアン・イーノという人の曲『THE
DANCE』であることを其の人から教えられた。私は其の曲が強く印象に残っていたので早速其の曲のCDを買った。
この曲の私の印象は、なんと表現したら良いか、素粒子が放散しているような感じがあり、そういう意味で現代物理学風であり、そのテレビ番組の内容にマッチしていた。
しかし、同時に其の曲『THE DANCE』は、タイトルどおり、どこかインドあたりの古典舞踊をも私に連想させた。
この頃は・・・'80年代だが・・・いわゆるニュー・サイエンスが時代精神として盛んな頃だった。
フリシチョフ・カプラの『タオ自然学』が此の頃の科学の時代精神の象徴だった。科学において、いわゆる東洋思想が見直され、其れを科学において重視する時代潮流があった。 この本は今でも売られている。
そういう時代精神があったから、現代物理学の解説に使われた『THE
DANCE』が、私にインド古典舞踏を連想させたのは当然だったかも知れない。
私が購入したブラアン・イーノのCDには、『THE DANCE』と共に『MEDITATION』という曲も収録されている。
これも東洋風の瞑想』を連想させる。
***
今世紀に入って科学は'80年代に全盛だったニュー・サイエンスから離れ、それ以前の『分析主義』主流の科学に戻り、ニュー・サイエンスは一時の流行に終わった観がある。
ブラアン・イーノ自身は科学とは何の関連のない人だが・・・彼は自らをノン・ミュージシャンと称しているようだ・・・私は『THE
DANCE』や『MEDITATION』を聴くと'80年代の頃を思い出す。
そして、これらの曲は科学云々を離れて、今でも私の好きな音楽の一つであり、今でも繰り返し聴いている。
ということで・・・
http://www.youtube.com/watch?v=_hes0hRY9v8
カルミナ・ブラーナ (カール・オルフ作曲)
ウィキメディアによれば此の音楽は、『楽器群と魔術的な場面を伴って歌われる、独唱と合唱の為の世俗的歌曲』という副題がついているそうで、『混声合唱、少年合唱、ソプラノ・テノール・バリトンのソリスト、大規模なオーケストラという大きな編成である。酒や男女の睦み合いなどを歌った詞に、シンプルな和音及び強烈なリズムが特徴。20世紀を代表する楽曲である』と書いてある。
そもそも「カルミナ・ブラーナ」とは19世紀初め、ドイツの修道院で発見された詩歌集で『歌詞の内容は若者の怒りや恋愛の歌、酒や性、パロディなどの世俗的なものが多く、おそらくこの修道院を訪れた学生や修道僧たちによるものと考えられた。』そうだ。
私は今迄この音楽は断片的に聴いたことがない。ところが先日、NHK・BS(N響)で上記の大編成による此の音楽が全曲放送された。
私は「待ってました」とばかりに聴いたのだが、予想どおり其の音響の怒涛に圧倒された。『シンプルな和音及び強烈なリズム』は、まさにボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ戦を見ているように私を興奮させた。
歌唱は何語で歌われたのか無知な私には判断ではないが、字幕を追っていくと確かに世俗的な、というより卑猥とさえ言えるシロモノであり、とてもお上品な詞とは言えない。修道院という抑圧のもとにあった修道僧たちの裏面・・・これは実に人間的とも言えるのだが・・・が垣間見える歌唱であった。
私は此の音楽にノックアウトされた。当然、HDからBDへと保存した。
***
楽器群と歌唱が混然として一体となった音楽で私が好きなものは、ワグナーのいくつかの楽劇とマーラーの『大地の歌』がある。いずれも特有な「媚薬」があるが、パンチの強さにおいてはカルミナ・ブラーナには及ばない。
笠智衆という俳優さん
私は笠智衆という俳優さんが好きである。
どこが好きかと言われても実は困る。
好きだから好きなのだ。
私は、笠智衆という俳優さんは大変器用な俳優さんだと思っている。
ここで『器用さ』という言葉は決して『技巧』のみを意味しているのではない。
なにか『人間的な味わい』というような意味も、その『器用さ』に含ませている。
よく言われるように、この『器用さ』を引き出した人は小津安二郎という天才かも知れない。
恐らくそうだろう。
しかし、もともと笠智衆という人に、そのような『器用さ』が内在していなければ、たとえ天才といえども、その『器用さ』を引き出すことは出来ないはずである。。
では、その『器用さ』とは?
具体例を二つ出そう。いずれも小津安二郎の映画である。
一つめ。下は『長屋紳士録』の中の一場面である。
http://www.youtube.com/watch?v=XK4ccsCI6Wc
二つめ。下は『彼岸花』の中の一場面である。
http://www.youtube.com/watch?v=rbQw09HF8To
私は、これらの映画の笠智衆に、上記した『器用さ』を感じている者であり、また、それゆえにも、笠智衆と言う人に敬愛を感じている者の一人だ。
どこが好きかと言われても実は困る。
好きだから好きなのだ。
私は、笠智衆という俳優さんは大変器用な俳優さんだと思っている。
ここで『器用さ』という言葉は決して『技巧』のみを意味しているのではない。
なにか『人間的な味わい』というような意味も、その『器用さ』に含ませている。
よく言われるように、この『器用さ』を引き出した人は小津安二郎という天才かも知れない。
恐らくそうだろう。
しかし、もともと笠智衆という人に、そのような『器用さ』が内在していなければ、たとえ天才といえども、その『器用さ』を引き出すことは出来ないはずである。。
では、その『器用さ』とは?
具体例を二つ出そう。いずれも小津安二郎の映画である。
一つめ。下は『長屋紳士録』の中の一場面である。
http://www.youtube.com/watch?v=XK4ccsCI6Wc
二つめ。下は『彼岸花』の中の一場面である。
http://www.youtube.com/watch?v=rbQw09HF8To
私は、これらの映画の笠智衆に、上記した『器用さ』を感じている者であり、また、それゆえにも、笠智衆と言う人に敬愛を感じている者の一人だ。
注:上のYou TubeのIRLは現在削除されている。
2014年10月22日水曜日
『グレート・ビキン』と『遺伝』(萩原朔太郎)
数年前のNHK・BSで、『グレート・ビキン』というドキュメンタリー番組が放送された。
このドキュメンタリーは2004年制作だから、劇場等でご覧になった方も多いだろう。
このドキュメンタリーの内容の詳細は下記リンク先で紹介されているから、それをざっとみていただきたい。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4155
上のリンク先で解説されているように、このドキュメンタリーの主題は、一口で言えば、『私たちは何処から生まれ、何処へ去っていくのか?』とでも言えると私は思うが、この主題は、この宇宙生成と消滅へと拡大されている。
私たち人間も含めて『いきもの』は、この宇宙で拡散浮遊している、言わば塵(ちり)から生成されたものであり、やがては、再び、この宇宙への塵へと消滅・拡散していく。この世の全ての物象は、この地球での、つかのまの存在であり、その存在は、地球をも包む大宇宙の中へと消えてゆく。そして再び、その拡散した塵は集結し、この宇宙でなにものかの物象として生成していく。時間という概念を更に超えた超時間の間の輪廻転生と言えるのかも知れない。
このドキュメンタリーの背後から以下の『つぶやき』が聞こえてくるように感ずるのは私ばかりではあるまい。確かに、このドキュメンタリーは背後に形而上の問題も提示している。
『生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに罔(くら)く、死に死に死に死んで死の終わりに罔し』(空海)
『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?』(パスカル)
***
このドキュメンタリーのハイビジョンで放送された映像の美しさ、というより生々しさには圧倒された。特に人間の子宮内の胎児の映像は圧巻であって、まるで胎児を直接目撃しているような生々(なまなま)しさだった。どのようにして撮影したのだろうか。また自身の頭部より大きい卵を飲み込む蛇の生態の凄さ。 ここでは『いきもの』のもつ冷徹さも見据えている。
***
詩人の感覚というものは鋭いと私はつくづく思う。このドキュメンタリーが提示していると私が感じている感覚。それは『いきもの』の原初的で根源的に罔(くらさ)だ。この罔さは、この大宇宙のなかでの『いきもの』の罔さでもある。冥土的な罔さと言い換えてもよいかも知れない。宇宙の中の『いきもの』の原初的・根源的な罔さ。この詩人は見事にそれを表現していると私は思う。このドキュメンタリーの背後にある形而上の命題は、この詩によって言葉で表現されている。
『遺伝』(萩原朔太郎)
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
このドキュメンタリーは2004年制作だから、劇場等でご覧になった方も多いだろう。
このドキュメンタリーの内容の詳細は下記リンク先で紹介されているから、それをざっとみていただきたい。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4155
上のリンク先で解説されているように、このドキュメンタリーの主題は、一口で言えば、『私たちは何処から生まれ、何処へ去っていくのか?』とでも言えると私は思うが、この主題は、この宇宙生成と消滅へと拡大されている。
私たち人間も含めて『いきもの』は、この宇宙で拡散浮遊している、言わば塵(ちり)から生成されたものであり、やがては、再び、この宇宙への塵へと消滅・拡散していく。この世の全ての物象は、この地球での、つかのまの存在であり、その存在は、地球をも包む大宇宙の中へと消えてゆく。そして再び、その拡散した塵は集結し、この宇宙でなにものかの物象として生成していく。時間という概念を更に超えた超時間の間の輪廻転生と言えるのかも知れない。
このドキュメンタリーの背後から以下の『つぶやき』が聞こえてくるように感ずるのは私ばかりではあるまい。確かに、このドキュメンタリーは背後に形而上の問題も提示している。
『生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに罔(くら)く、死に死に死に死んで死の終わりに罔し』(空海)
『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?』(パスカル)
***
このドキュメンタリーのハイビジョンで放送された映像の美しさ、というより生々しさには圧倒された。特に人間の子宮内の胎児の映像は圧巻であって、まるで胎児を直接目撃しているような生々(なまなま)しさだった。どのようにして撮影したのだろうか。また自身の頭部より大きい卵を飲み込む蛇の生態の凄さ。 ここでは『いきもの』のもつ冷徹さも見据えている。
***
詩人の感覚というものは鋭いと私はつくづく思う。このドキュメンタリーが提示していると私が感じている感覚。それは『いきもの』の原初的で根源的に罔(くらさ)だ。この罔さは、この大宇宙のなかでの『いきもの』の罔さでもある。冥土的な罔さと言い換えてもよいかも知れない。宇宙の中の『いきもの』の原初的・根源的な罔さ。この詩人は見事にそれを表現していると私は思う。このドキュメンタリーの背後にある形而上の命題は、この詩によって言葉で表現されている。
『遺伝』(萩原朔太郎)
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
2014年10月19日日曜日
『空車』(森鴎外)について
私は此の『空車』の後半部分を読むたびに、鴎外の『妄想』に書かれた或る箇所を連想する。その箇所を引用してみよう。(『空車』の前半部分は私は興味がない。)
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(前略)自分は辻に立っていて、たびたび帽をぬいだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大ぜいあったのである。
帽はぬいだが、辻を離れてどの人かのあとについて行こうとは思わなかった。多くの師にはあったが、一人の主にはあわなかったのである。
---------------------------
此の空車は鴎外の主のメタファーかも知れない。
いずれにしても『空車』の後半の文章は鴎外以外には書けない文章だと私は思っている。
そして現代日本語で書かれた最高の文章の一つだとも私は思っている。
2014年10月15日水曜日
『高瀬舟』(森鴎外)と安楽死
中学生の頃、国語の教科書で読んだ人も多いだろう。
後期の鴎外の一連の史伝での晦渋な語彙は此の短編にはなく、平易な文章で書かれているからだ。
だからといって、安易な文章では決してない。
鴎外流の無駄のない筋肉質な簡潔な文章は現在読んでも快い。
大岡昇平の言葉を借りれば「均整のとれた観賞的態度で貫かれている」のだ。
この『高瀬舟』は大正五年一月に書かれているが、芥川龍之介の「鼻」「羅生門」などの初期の歴史小説は、『高瀬舟』から出たと言っても過言ではないと大岡昇平は書いている。
***
よく知られているように此の『高瀬舟』は安楽死の問題をテーマにしている。この短編が書かれた頃は安楽死という日本語は無かったのか鴎外はユータナジィというフランス語を使っている。
この短編では鴎外は明らかに或る状況下での安楽死を肯定している。
この短編が書かれた頃の世間常識では此れは特異な見解だったかも知れない。
あるいは今日においても、如何なる状況下でも安楽死を認めない宗教があるかも知れない。それほど、安楽死という主題は重い問題であることは間違いない。
***
安楽死という問題は、鴎外は此の短編において時代を先取りした観がある。
鴎外は医者でもあったから鴎外にとっては身近な問題だったのだろう。鴎外の時代でも医者の間で安楽死をさせることの当否の両論があったらしい。
そして今日において安楽死の是非は我々庶民レベルでも切実な問題となっている。
事実、私の父が脳梗塞で倒れ生死の境をさ迷っていたとき、担当医は状況によっては安楽死させるか自然死を待つか決めておくように私に言った。
いかに苦しかろうが自然死を待つか、無為な苦しみから解放させるべく安楽死させるか、その選択をしておくように担当医に言われたものだ。
***
この『高瀬舟』での鴎外は「無為な苦しみを長引かせるより安楽死をさせる」ことを肯定している。
ここで問題となるのは『無為な』であるが、その判断の困難さだろう。医者は万能ではない。その判断を全面的に医者に委ねるのは酷だろう。
結局のところ、『無為か否か』を決めるのは当人しか、あり得ない。しかし現実には其れを決める当人が死線をさ迷う状態ならば、他人が決めるしかない。
だから、よく言われることだが、自分自身の始末は其の判断ができるときに決めておき、出来る限り文面化しておくのが此の超高齢化社会においては、もはや他者への義務だろう。
***
今や、「いかに生きるべきか」よりも「いかに死ぬか」のほうが、社会的・文学的あるいは哲学的、ひいては一般社会常識での切実な問題になっていると私は思っている。
後期の鴎外の一連の史伝での晦渋な語彙は此の短編にはなく、平易な文章で書かれているからだ。
だからといって、安易な文章では決してない。
鴎外流の無駄のない筋肉質な簡潔な文章は現在読んでも快い。
大岡昇平の言葉を借りれば「均整のとれた観賞的態度で貫かれている」のだ。
この『高瀬舟』は大正五年一月に書かれているが、芥川龍之介の「鼻」「羅生門」などの初期の歴史小説は、『高瀬舟』から出たと言っても過言ではないと大岡昇平は書いている。
***
よく知られているように此の『高瀬舟』は安楽死の問題をテーマにしている。この短編が書かれた頃は安楽死という日本語は無かったのか鴎外はユータナジィというフランス語を使っている。
この短編では鴎外は明らかに或る状況下での安楽死を肯定している。
この短編が書かれた頃の世間常識では此れは特異な見解だったかも知れない。
あるいは今日においても、如何なる状況下でも安楽死を認めない宗教があるかも知れない。それほど、安楽死という主題は重い問題であることは間違いない。
***
安楽死という問題は、鴎外は此の短編において時代を先取りした観がある。
鴎外は医者でもあったから鴎外にとっては身近な問題だったのだろう。鴎外の時代でも医者の間で安楽死をさせることの当否の両論があったらしい。
そして今日において安楽死の是非は我々庶民レベルでも切実な問題となっている。
事実、私の父が脳梗塞で倒れ生死の境をさ迷っていたとき、担当医は状況によっては安楽死させるか自然死を待つか決めておくように私に言った。
いかに苦しかろうが自然死を待つか、無為な苦しみから解放させるべく安楽死させるか、その選択をしておくように担当医に言われたものだ。
***
この『高瀬舟』での鴎外は「無為な苦しみを長引かせるより安楽死をさせる」ことを肯定している。
ここで問題となるのは『無為な』であるが、その判断の困難さだろう。医者は万能ではない。その判断を全面的に医者に委ねるのは酷だろう。
結局のところ、『無為か否か』を決めるのは当人しか、あり得ない。しかし現実には其れを決める当人が死線をさ迷う状態ならば、他人が決めるしかない。
だから、よく言われることだが、自分自身の始末は其の判断ができるときに決めておき、出来る限り文面化しておくのが此の超高齢化社会においては、もはや他者への義務だろう。
***
今や、「いかに生きるべきか」よりも「いかに死ぬか」のほうが、社会的・文学的あるいは哲学的、ひいては一般社会常識での切実な問題になっていると私は思っている。
2014年10月14日火曜日
『山椒太夫』(森鴎外)の安寿
10年程前、私は盛んに2CHを覗いていた。その頃の話だが、確か『溝口健二』のスレッドがあって、話題が溝口の映画『山椒太夫』に及んでいた。
そのとき誰だが以下のようなコメントを書いていた。
溝口の映画『山椒太夫』において、安寿を厨子王の妹にするのは、溝口は万死に値する。 そういうコメントであった。
私はそれを見て、大いに同感するとリコメントした、。
安寿を妹にするのは、溝口は全く鴎外の小説を理解していない、とも私は書きそえた。
***
ここで鴎外の小説に登場する女性たちを思いつくままに列挙してみよう。
先ず、安寿。 『御寺院原の敵打』の「りよ」。 『安井夫人』の「さよ」。 『最後の一句』の「いち」。 『じいさんばあさん』の「るん」。 『澁江抽斎』の「五百」。等。
これらの女性たちには共通点がある。
外柔内剛型で自律心・自立心を秘めた、言ってみれば長女タイプである。
『最後の一句』の「いち」が其の典型である。
そして彼女たちは容姿は『じいさんばあさん』の「るん」が其の典型である。
鴎外の其の描写を引用してみよう。
『るんは美人という性(たち)ではない。もし床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法の出来た器具のような物であろう。』
こういう女性たちに対する鴎外の視線は明らかに好感をもっている。
いや、もう少し強く言えば、敬意をもって彼女たちを見ている。
それは小説を読めば容易に分かる。
***
だから、安寿は厨子王の姉でなければ此の短編は成立しない。
安寿の献身は、その入水は、姉でなければ成立しないのだ。
ここらへんの綾(あや)を溝口たちは理解していない。
私が溝口の『山椒太夫』を愚作だと断定する利用は其処にある。
故に例の2CHのコメントに同感の意を私は書いたのだった。
***
山本周五郎や藤沢周平の女性に対する視線は鴎外の其れと似ていると私は思っている。
『通りゃんせ』という童歌
『通りゃんせ』という童歌がある。
以下の歌である。
----------------------------
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
-----------------------------
私は昔から此の童歌に或る不気味さを感じていた。
「行きはよいよい 帰りはこわい」とは何が怖いのだろうかと。
そこで、だいぶ前になるが、2CHの映画『悪魔の首飾り』というスレッドで・・・このスレは現在ないが・・・訊いてみたことがある。
一体何が怖いのか? と。
すると或る人が以下のような趣旨のコメントをくれた。
***
子供が生まれると親は天神様にお札を貰う慣例があった。この子が健康に育つようにとお札を貰い御加護を受けるというのだ。
ところが其の子が七つになると其のお札を天神様に返すことになっていた。
其のお札を天神様に返すと、其の子は天神様の御加護がなくなる。
だから、『行きはよいよい 帰りはこわい』。
つまり、お札の返却後は其の子は天神様のご加護が無くなり、これからは何事も自力で困難に立ち向かわなくてはならない。
お札の返却は、子供から大人への通過儀礼だ、という趣旨のコメントだった。
***
私はナルホドと思ったものだ。サイトで調べると此の唄の由来は他のものもある。
いずれにせよ、此の歌には「生きる」ということの或る根源的な暗さを内在しているようで、上記した解釈も私は今も何故か忘れられない。
以下の歌である。
----------------------------
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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私は昔から此の童歌に或る不気味さを感じていた。
「行きはよいよい 帰りはこわい」とは何が怖いのだろうかと。
そこで、だいぶ前になるが、2CHの映画『悪魔の首飾り』というスレッドで・・・このスレは現在ないが・・・訊いてみたことがある。
一体何が怖いのか? と。
すると或る人が以下のような趣旨のコメントをくれた。
***
子供が生まれると親は天神様にお札を貰う慣例があった。この子が健康に育つようにとお札を貰い御加護を受けるというのだ。
ところが其の子が七つになると其のお札を天神様に返すことになっていた。
其のお札を天神様に返すと、其の子は天神様の御加護がなくなる。
だから、『行きはよいよい 帰りはこわい』。
つまり、お札の返却後は其の子は天神様のご加護が無くなり、これからは何事も自力で困難に立ち向かわなくてはならない。
お札の返却は、子供から大人への通過儀礼だ、という趣旨のコメントだった。
***
私はナルホドと思ったものだ。サイトで調べると此の唄の由来は他のものもある。
いずれにせよ、此の歌には「生きる」ということの或る根源的な暗さを内在しているようで、上記した解釈も私は今も何故か忘れられない。
2014年9月14日日曜日
「楢山節考」と敬老の日
私は深沢七郎の『楢山節考』は読んではいない。確か木下恵介(昭和33年制作)の映画はみている。70歳になって山に捨てられる老女は田中絹代が演じていたのも記憶している。
Wikiによれば、この小説は以下のように紹介されている。
----------------------------------------------------
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。
--------------------------------------------------
映画も此のストーリーどおりであったと記憶している。
この映画を観たのは私は中学生の頃だが、正直、気の滅入る映画であった。
小説も読む気にはなれなかった。当時、私にとっては、あまりに異界の世界だったからだ。
***
此の国では飽食の時代と言われて久しいが、飢餓の体験は私たち世代・・・と言っても私は今や「捨てられる」べき古稀ではあるのだが・・・にとって身近にあった時代でもある。
あるいは近い将来において、何らかな理由により空前なる飢餓の時がくる可能性も高い。だから、『楢山節考』が将来、異界の世界とはならないとは誰も決して言えない。
その時の現実は、此の小説のように『優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出』すほど、甘くはないだろう。残念ながら。
***
Wikiで或る人の発言も紹介している。いわく、
『姥捨て」は「高齢者福祉」という21世紀の大きな問題として現在し、介護施設に親を入れることは、「楢山まいり」に行くことと重なり、老いと死は人間の根本的な問題の「根源神話」であるとし(以下省略)』
私は介護施設が「楢山まいり」とは決してならないと信じている。事実、個人的体験として現行の介護施設制度がなかったら私は自殺に追い詰められていただろう。
***
Wikiでは、いろいろな人が此の小説についての感想の断片も紹介している。
その中で三島由紀夫のそれが印象的だったので、少し長いが引用しておこう。
-------------------------
また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら、以下のように語っている。
しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる。
----------------------------
三島は此の小説を「不快な傑作」と評している。
今生という世界は、何も此の小説のみならず、其の大半の世界は『崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、この世にたよるべきものが何一つな』いのが偽らざる普通人の実情だと私は思っている。
おりしも今日は敬老感謝の日。感謝される人間が感謝する人間よりもベキ乗で増加されつつある今、この祭日も近々無くならざるを得ないだろう。
—
2014年8月27日水曜日
或る女子高校生の歌
もう今から何十年か前、或る歌人がテレビ番組で女子高校生の短歌を紹介していた。
当時、全国女子高校生短歌大会という催しがあり、其の入選歌とのことであった。
たまたま偶然に見たテレビ番組だったが、そこで紹介された歌は私は今でも覚えている。
それは下記の歌だった。
『 信じない 信じられない 信じたい 投げつけられたトマトのように 』
『 黒板に書かれることが真(まこと)なら 白いチョークを一本ください』
青春という時期は、例えば『信じる』ということにも必要以上に敏感であり、歳とってみれは何でもないことにも、『投げつけられたトマト』のように心がグチャっと赤く傷ついてしまう。
この青春という時期の痛ましさを、『 信じない・・・』のうたは良く表現されていると私は思ったものだ。
また『黒板に・・・』のうた。
私はこのうたを聞いたとき、映画『西部戦線異常なし』を連想した。
(小説でもそうでだろうが)此の映画のラストで、若き兵士が傍の花をとろうとした時、射撃され死んでいく。其の場面は印象的だった。
教室で『まことしやかな』ことを教師は黒板に書き、生徒たちを戦場へと送り出していく。
このような教師の欺瞞を、此のうたの作者である女子高校生は鋭く見抜いている。
ここにも青春というもののもつ鋭敏な眼が此の女子高校生にはある。
尤も現在も健在なら、いい歳のおばさんになっているだろうが。
歳をとるということは、青春の此のような『痛ましさ』や『鋭敏さ』から鈍感になっていくということでもある。
このことは私たちの人生にとって、何か大事なものを失うことでもあるが、また反面、救いでもあると私は思っている。
当時、全国女子高校生短歌大会という催しがあり、其の入選歌とのことであった。
たまたま偶然に見たテレビ番組だったが、そこで紹介された歌は私は今でも覚えている。
それは下記の歌だった。
『 信じない 信じられない 信じたい 投げつけられたトマトのように 』
『 黒板に書かれることが真(まこと)なら 白いチョークを一本ください』
青春という時期は、例えば『信じる』ということにも必要以上に敏感であり、歳とってみれは何でもないことにも、『投げつけられたトマト』のように心がグチャっと赤く傷ついてしまう。
この青春という時期の痛ましさを、『 信じない・・・』のうたは良く表現されていると私は思ったものだ。
また『黒板に・・・』のうた。
私はこのうたを聞いたとき、映画『西部戦線異常なし』を連想した。
(小説でもそうでだろうが)此の映画のラストで、若き兵士が傍の花をとろうとした時、射撃され死んでいく。其の場面は印象的だった。
教室で『まことしやかな』ことを教師は黒板に書き、生徒たちを戦場へと送り出していく。
このような教師の欺瞞を、此のうたの作者である女子高校生は鋭く見抜いている。
ここにも青春というもののもつ鋭敏な眼が此の女子高校生にはある。
尤も現在も健在なら、いい歳のおばさんになっているだろうが。
歳をとるということは、青春の此のような『痛ましさ』や『鋭敏さ』から鈍感になっていくということでもある。
このことは私たちの人生にとって、何か大事なものを失うことでもあるが、また反面、救いでもあると私は思っている。
2014年8月23日土曜日
真空と空集合(この宇宙の始まり)
(以下は私の勝手な迷想だ。だから真偽の保証はないし厳密さに欠ける。)
『脳とビッグバン』(立花隆著)にこんなことが書いてある。
『インフレーションを引き起こしたもの、それは真空のエネルギーです。真空というと、全く物質の存在の存在しない空っぽの空間(ニュートン的真空)のことだと思われるかも知れませんが、物理学的な真空は決して空っぽではないのです。量子論を真空に適用すると真空も「ゆらぎ」をもっているのです。実際、真空では素粒子が生成消滅を繰り返している、エネルギーのある状態なのです。』
そもそも、この世は『無』だった。『無』は真空か? そこらがよく分からない。ただ、この世の開闢(←それ以前は何か? そもそも、この質問自体が意味をなさないのか? )後、10^(-44)後、インフレーションと呼ばれる宇宙の超膨張が始まる。これはビッグバンではない。ビッグバンは、このインフレーション後(10^(-34秒)からの宇宙の大膨張を言う。
だから、ざっくり言って『無』を『真空』の謂いとしよう、この世は『無』なる『真空』から始まった、と考えよう。
ところが、この『真空』なるものは、量子論からみると『真空では素粒子が生成消滅を繰り返している、エネルギーのある状態なのです。』。
そして、この真空のエキルギーから、この世の一切がスタートする。時間が生まれ、空間が生まれ、素粒子が生まれ、星が生まれ、銀河が生まれ、生物が生まれ・・・挙句の果てに貴方が生まれ、私が生まれ・・・・・・・。
つまりは、この世の一切合財が『無』から生まれる!!!!
***
次に集合論の説く天地創造をみてみよう。集合論では、その理論の前提として、ただ一つのモノしか認めない。そのただ一つのモノとは・・・『なにもない』ことだ。
つまり『無』。これを空集合(φで表す)といい、これを0と名づけよう。さて次に0だけからなる集合を{0}を1と名づけよう。次に、0と1だけからなる集合{0,1}を2と名づけよう。このようにして、無(φ)からのみ自然数全てが生成されてくる。集合論的天地創造であり、『無』から全てが生成されるいくという意味で、この現実世界の宇宙生成とそっくれではないか!!! 『無』というものの豊穣さとでも言えようか。
0=φ
1={0}
2={0,1}
3={0,1,2}
4={0,1,2,3}
・
・
・
n={0,1,2,3,・・・・,n}
n={0,1,2,3,・・・・,n}
・
・
・
ω={0,1,2,3,4,・・・・・}
ここでωは自然数全体の集合となっている。
話は、ここで終了はしない。集合論的天地創造は更に永遠に続くのだ。
即ち、
ω+1={0,1,2,3,・・・・・,
ω}
ω+2={0,1,2,3,・・・・・,
ω,ω+1}
・
・
ω+ω={0,1,2,3,・・・・・, ω,ω+1,ω+2,・・・・}
・
・
このような集合は順序数とよばれるのだが、この順序数の生成の有様は、まさに眼も眩わんばかりのモノ凄いというか息づまるほどの世界だ。数学というか人間の思考の世界は、パスカルではないが宇宙をも飲み込む凄さだ。
それにしても、『無』なるモノが、この現実の宇宙においても、集合論においても、それらの世界の豊潤さの源であるということは、不思議というか当然というか何とも表現し難き神秘さがある。
2014年8月22日金曜日
アニメ:Z^1+0.5→Z^2+0.5への変容
https://www.youtube.com/watch?v=c5eBP7e6iPA
1という数字は (0を除いて考えると) 自然数の最初の値であり、その意味で『ものの始まり』に対応している。
自然数のその次の数は 2 であるが、1 から 2 へと変化するとき、画像の変化から分かるように、「内臓部」が二つに「分裂」していく。
この様子は例えれば、此の画像は、1 という何もない原始の混沌の世界から何ものかへと形が形成していく様子の数学的表現だと言えそうだ。
即ち、例えば母親の胎内で胎児が形成されていく様子を連想させる。
この画像は此の世の 『ものの始まり』 とか 『ものがたりの始まり』とかの数学的表現だと私は見ている。
1という数字は (0を除いて考えると) 自然数の最初の値であり、その意味で『ものの始まり』に対応している。
自然数のその次の数は 2 であるが、1 から 2 へと変化するとき、画像の変化から分かるように、「内臓部」が二つに「分裂」していく。
この様子は例えれば、此の画像は、1 という何もない原始の混沌の世界から何ものかへと形が形成していく様子の数学的表現だと言えそうだ。
即ち、例えば母親の胎内で胎児が形成されていく様子を連想させる。
この画像は此の世の 『ものの始まり』 とか 『ものがたりの始まり』とかの数学的表現だと私は見ている。
アニメ:放散虫:Z^3+0.5の「内臓」の「ら線階段」
https://www.youtube.com/watch?v=olEai4HRg4c
とても面白い”放散虫”に、Z^3+0.5 がある。
この”虫”にも其の画像構造に顕著な自己相似性(フラクタル性)を随所に見出させる。
更に特徴的なことは、この”虫”には「ら線階段」が随所にあって、その「階段」は或る一点へと収斂している。
その特異点は、(静止画像で詳しく調べれば)、超限個あることが分かる。其の超限個がアレフ零なのか(たぶん、そうではないと思うのだが)、それとも他のアレフなのかという興味深い問題を此の画像は秘めている。
下のアニメの最後で現れるのが其の階段の一つであって、この階段は無限の彼方へと収斂している。
とても面白い”放散虫”に、Z^3+0.5 がある。
この”虫”にも其の画像構造に顕著な自己相似性(フラクタル性)を随所に見出させる。
更に特徴的なことは、この”虫”には「ら線階段」が随所にあって、その「階段」は或る一点へと収斂している。
その特異点は、(静止画像で詳しく調べれば)、超限個あることが分かる。其の超限個がアレフ零なのか(たぶん、そうではないと思うのだが)、それとも他のアレフなのかという興味深い問題を此の画像は秘めている。
下のアニメの最後で現れるのが其の階段の一つであって、この階段は無限の彼方へと収斂している。
アニメ:放散虫Z^2+0.5→Z^3+0.5への変容
https://www.youtube.com/watch?v=YuvExaoSKp8
興味ある人へのコメント。
複素平面という名の池には、Z^2+0.5 や Z^3+0.5 という名の放散虫がヒッソリと棲息している。
これらの虫の「内臓」は「細胞分裂」して生まれ変わる!!
興味ある人へのコメント。
複素平面という名の池には、Z^2+0.5 や Z^3+0.5 という名の放散虫がヒッソリと棲息している。
これらの虫の「内臓」は「細胞分裂」して生まれ変わる!!
アニメ:マンデルブロ画像の分岐の成長
https://www.youtube.com/watch?v=stEuetB4yU8&feature=youtube_gdata
以下、興味ある人へのコメント。
マンデルブロ集合とは巡回式:Z←Z^2+Cにおいて、或る条件の元に発散しない(複素平面上の)点Cの集合を言う。
与えられた複素平面において発散する「早さ」はマンデルブロ集合外の点は各位置によって異なる。
上図は発散の早い順に従って表示されていく。発散の早さを見やすくするために発散箇所を赤黒線で表示した。
上図のアニメから分かるように発散の早さは、連続的に複雑に分岐しながら「成長」していく。
その分岐の様子は、さながら血管や肺の分岐の成長のようで面白い。
この分岐形態には或る法則があるに違いないが複雑過ぎて、私の手には及ばない。
最終画像での白い部分がマンデルブロ集合である。その定義からして、この部分には分岐の成長は永遠に達しない。
換言すればマンデルブロ集合の周辺部は無限に分岐しているのだ!!!
以下、興味ある人へのコメント。
マンデルブロ集合とは巡回式:Z←Z^2+Cにおいて、或る条件の元に発散しない(複素平面上の)点Cの集合を言う。
与えられた複素平面において発散する「早さ」はマンデルブロ集合外の点は各位置によって異なる。
上図は発散の早い順に従って表示されていく。発散の早さを見やすくするために発散箇所を赤黒線で表示した。
上図のアニメから分かるように発散の早さは、連続的に複雑に分岐しながら「成長」していく。
その分岐の様子は、さながら血管や肺の分岐の成長のようで面白い。
この分岐形態には或る法則があるに違いないが複雑過ぎて、私の手には及ばない。
最終画像での白い部分がマンデルブロ集合である。その定義からして、この部分には分岐の成長は永遠に達しない。
換言すればマンデルブロ集合の周辺部は無限に分岐しているのだ!!!
我が半生の読書ベスト10
これから挙げる本以上の本は今後、私の前に現れそうもないから、我が半生の読書における総括となるだろう。思いつくままに挙げてみよう。
・『3ポンドの宇宙・脳と心の迷路』(J.フーバー他、白揚社)
・『ホロン革命』(A.ケストラー、工作社)
・芥川龍之介全集(筑摩書房)
・『コンピューター・カオス・フラクタル』(C.A.ピックオーバー、白揚社)
・『わが人生の時の時』(石原慎太郎、新潮社)
・『インド夜想曲』(A.タブツキ、白水ブックス)
・『成語林』(旺文社)
・『能の表現・その逆説の美学』(増田正造、中公新書)
・『無限の果てに何があるか』(足立恒夫、知恵の森文庫)
・『推計学のすすめ』(佐藤信、ブルーバックス)
もうこれで10冊になってしまった。実は未だ未だ有る。
私は蔵書家では決してない。そして、今までコトあるごとに私は本を捨ててきた。捨てなければよかったと今更悔やむ本も多々ある。
***
本を捨てるとき或る痛みを私は感じたものだ。
しかし本を捨てるという行為で、其の時私は私の心の平衡を保ったものだ。本は他の物とは違うからだ。
今度、私が本を捨てるときは、たぶん、或る意味で私を捨てるときになるだろう。
・『3ポンドの宇宙・脳と心の迷路』(J.フーバー他、白揚社)
・『ホロン革命』(A.ケストラー、工作社)
・芥川龍之介全集(筑摩書房)
・『コンピューター・カオス・フラクタル』(C.A.ピックオーバー、白揚社)
・『わが人生の時の時』(石原慎太郎、新潮社)
・『インド夜想曲』(A.タブツキ、白水ブックス)
・『成語林』(旺文社)
・『能の表現・その逆説の美学』(増田正造、中公新書)
・『無限の果てに何があるか』(足立恒夫、知恵の森文庫)
・『推計学のすすめ』(佐藤信、ブルーバックス)
もうこれで10冊になってしまった。実は未だ未だ有る。
私は蔵書家では決してない。そして、今までコトあるごとに私は本を捨ててきた。捨てなければよかったと今更悔やむ本も多々ある。
***
本を捨てるとき或る痛みを私は感じたものだ。
しかし本を捨てるという行為で、其の時私は私の心の平衡を保ったものだ。本は他の物とは違うからだ。
今度、私が本を捨てるときは、たぶん、或る意味で私を捨てるときになるだろう。
江戸しぐさ
Wikiからのコピペだが、私は此れが好きなのだ。お説教というものが大嫌いな私は此れは大好き。
-------------
・傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと。
・肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。
・時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
・うかつあやまり
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
・七三の道
道の、真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと。
・こぶし腰浮かせ
乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。
・逆らいしぐさ
「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。
などなど。
『とかく此の世は生きにくい』のだが此の程度なら誰でも出来るコト。江戸人は偉い。
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・傘かしげ
雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと。
・肩引き
道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。
・時泥棒
断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
・うかつあやまり
たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
・七三の道
道の、真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと。
・こぶし腰浮かせ
乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。
・逆らいしぐさ
「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。
などなど。
『とかく此の世は生きにくい』のだが此の程度なら誰でも出来るコト。江戸人は偉い。
数学と宗教(神秘主義)
カントールの超限集合論に対する関心は私は素人レベルでもっていて、いくつかの一般読者向けのその方面の本(勿論素人向け)を読んできたが、それらの本では、カントールの宗教への関心は否定的・批判的であった。但し、『「無限」に魅入られた天才数学者』(アミール・D・アクゼル著、早川書房)という本では、カントールの無限論とユダヤ神秘主義の関連を肯定的に書かれていて、それらの関連性について詳しく解説している。
しかし、他の本(と言っても数冊程度だが)、カントールの宗教への傾斜は数学者として邪道だとして否定的に書かれている。
ところが『無限とはなにか?』(ローレン・グレアム他著、オーム社)の本では、カントールの超限集合論は、宗教と密接しているとしている学派について書かれている。
カントールの超限集合論はフランスでは純数学として研究されたようだ。ところがモスクワ学派という学派があって、その学派ではカントールの超限集合論を神秘主義として肯定的に発展させたらしい。
実はこの本は私には『及びでない』本で私レベルの本ではないのだが、ちょっと覗いてみたくて図書館から借りた。どうせ読んでも私には理解できない内容だから、パラパラとその内容を覗き見ているだけで、いいかげんな読みかたでチャンとした感想などかけないが、カントールの集合論が宗教と深く関係している数学研究者がいる(モスクワ学派)というのは驚きだった。
たしかに無限という概念は宗教と深く関連しそうだ、というのは素人でも推定できるが、カントールの実無限の発見を、きちんと神秘主義と関連づけている数学者に存在するというのは新鮮な発見だ。そこらあたりをキチンと理解したいのだが、なにぶん当方の知識が貧弱過ぎて手におえない。
ただ、カントールが後年、彼の集合論を宗教と結びつけて考えていた、ということに対する否定的批判は、ある偏見だった可能性がある。神と無限の問題。これは世界の多くの玄人数学者が嘲笑的に避けているとしたら、これは偏見だと言えるのではないか。
モスクワ学派というのは、よく知られていないらしい。この本はそういう意味で貴重な本のようだ。尤も数学と神秘主義は歴史的には古いつきあいはあるのだが。
しかし、他の本(と言っても数冊程度だが)、カントールの宗教への傾斜は数学者として邪道だとして否定的に書かれている。
ところが『無限とはなにか?』(ローレン・グレアム他著、オーム社)の本では、カントールの超限集合論は、宗教と密接しているとしている学派について書かれている。
カントールの超限集合論はフランスでは純数学として研究されたようだ。ところがモスクワ学派という学派があって、その学派ではカントールの超限集合論を神秘主義として肯定的に発展させたらしい。
実はこの本は私には『及びでない』本で私レベルの本ではないのだが、ちょっと覗いてみたくて図書館から借りた。どうせ読んでも私には理解できない内容だから、パラパラとその内容を覗き見ているだけで、いいかげんな読みかたでチャンとした感想などかけないが、カントールの集合論が宗教と深く関係している数学研究者がいる(モスクワ学派)というのは驚きだった。
たしかに無限という概念は宗教と深く関連しそうだ、というのは素人でも推定できるが、カントールの実無限の発見を、きちんと神秘主義と関連づけている数学者に存在するというのは新鮮な発見だ。そこらあたりをキチンと理解したいのだが、なにぶん当方の知識が貧弱過ぎて手におえない。
ただ、カントールが後年、彼の集合論を宗教と結びつけて考えていた、ということに対する否定的批判は、ある偏見だった可能性がある。神と無限の問題。これは世界の多くの玄人数学者が嘲笑的に避けているとしたら、これは偏見だと言えるのではないか。
モスクワ学派というのは、よく知られていないらしい。この本はそういう意味で貴重な本のようだ。尤も数学と神秘主義は歴史的には古いつきあいはあるのだが。
神の論理
孫引きだが『神狩り』(山田正紀著)というSFに面白いことが書いてあるそうだ。
『全ての複合論理命題は∨(OR)と¬(否定)で構成できる』
ことは、このテの話に興味ある人なら誰でも知ってるだろうが、実は一つの論理のみで,∨(OR)も¬(否定も表現できるそうだ。仮に此の論理記号を | と表して、その真理値表で以下のように定義する。
A B A|B
0 0 1
0 1 0
1 0 0
1 1 0
試してみれば分かるが、なるほど∨(OR)も¬(否定)も | で表現できてしまう。
ということは、
『全ての複合論理命題は | という一つの論理で構成できる』
ことになる。この | は「神の論理」と著者は言ってるそうである。
暇な人は試してみるとよい。
『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)という本の、ゲーデルの話の終わりのほうで著者が確認している。
『全ての複合論理命題は∨(OR)と¬(否定)で構成できる』
ことは、このテの話に興味ある人なら誰でも知ってるだろうが、実は一つの論理のみで,∨(OR)も¬(否定も表現できるそうだ。仮に此の論理記号を | と表して、その真理値表で以下のように定義する。
A B A|B
0 0 1
0 1 0
1 0 0
1 1 0
試してみれば分かるが、なるほど∨(OR)も¬(否定)も | で表現できてしまう。
ということは、
『全ての複合論理命題は | という一つの論理で構成できる』
ことになる。この | は「神の論理」と著者は言ってるそうである。
暇な人は試してみるとよい。
『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)という本の、ゲーデルの話の終わりのほうで著者が確認している。
時間がそれを軽減し・・・
『時間がそれを軽減し和らげてくれないような悲しみはない』
これは、ローマの政治家キケロの言葉だそうで。
時がすぎていくということは人生でのなによりの癒しかも知れない。
一方でまた、『おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな』という言葉もある。
この言葉を少し変えて、『おもしろうてやがて淋しきしき祭りかな』としてみると、楽しみというものも、時が過ぎれば、なんとなく淋しいものになっていく。
時はすぎゆく・・これは人生の悲しみであれ、楽しみであれ、癒しであり過酷さだろう。
たとえ短い人生であっても・・・
たとえ短い人生であっても色々なことに遭遇する。
「成語林」では、この言葉の類として以下の言葉も紹介している。
『禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し』
『吉凶は糾える縄の如し』
『一生は糾える縄の如し』
『禍(わざわい)は福の倚(よ)る所、福は禍の伏(ふく)する所』
『禍も幸いの端(はし)となる』
などなど
どの言葉も、この世のなにごとも、「ものは考えよう」であり、
「禍転じて福となせ !!」という激励の言葉だろう。
「成語林」では、この言葉『人間万事塞翁が馬』の次に、寺田虎彦の言葉
『災害は忘れた頃にやってくる』が記載されている。
これら双方の言葉は人世の深いところで繋がっているのだろう。
TVドラマ『日本の面影』(1984年、NHK)
だいぶ昔、NHKで『日本の面影』というドラマが放送された。
小泉八雲の『日本の面影』を踏まえたドラマであったが・・・私は此の本は読んでいないので正確なことは言えないが・・・この本のドラマ化というより、島根県・松江などでの小泉八雲と彼の家族の生活を描いた佳品であった。
TVドラマなるものを全く観ない私には珍しく大変面白く観たものだった。
このドラマで異色だったのは、ラフカディオ・ハーンを演じたのが、あの『ウエストサイド物語』のジョージ・チャキリスであった。
私は此の配役に最初驚いたものだが、意外にも実に適役で私は此のドラマを観ていくうちに私は彼に大変好感をもつようになった。
恐らく、『ウエストサイド物語』にも優るとも劣らぬ彼の代表作と言ってもよい好演だった。小泉八雲の妻・小泉セツは壇ふみが演じたが此れも好演だった。また脇役陣も芸達者が並び充実したドラマだった。
***
このドラマは随所で、当時においても失われゆく『懐かしき日本の面影』が紹介されている。私は谷崎純一郎の『陰翳礼賛』が好きだが・・・此れは、もう一度再読したい本の一つだが・・・、小泉八雲は、日本の国の此の『陰翳』をこよなく愛したと言われる。このドラマでは其の『陰翳』も映像化されており、未だ此のドラマを観ていない人は機会があったら観ても損はないと思う。
『風情(ふぜい)』と云う言葉自体、死語になりつつある此の国において、まだ其の残滓は残っているのであり、眼力のある人は其れを現在も発見できるだろう。
***
そもそも『幽霊』のいない国は詰まらない国である。
それは断言できる。
なぜなら、そのような国は『光』が無いからだ。『夜』がなくて、どうして『陽光』があり得よう。
2014年8月21日木曜日
大学祝典序曲(ブラームス)の思い出、二つ。
一つめは私が大学受験し、「ハナ・チル」の電報をもらって、浪人生活、うん年後、目出度く、入学合格した、あの春、入学式典時に此の序曲が厳かに流れてきたのだった・・・・ということ。
二つめ。
映画『スペンサーの山』のこと。
この映画をみたのは、随分昔で、ちょっとネットで調べたら1963年製作だから、私が此の映画を観たのは、かれこれ40数年前になる。
この映画は当時アメリカの良心を描いたと評された佳品であった。山で生計を立てている質朴で貧しくはあるが信仰篤い家族を描いた、ちょっと切なく、しかし、とても、さわやかな映画だった。ヘンリー・フォンダとモーリン・オハラが演ずる夫婦には息子がいて、この息子は学問が好きなのだが、家が貧乏である等のため其の夢を断念していた。
その息子の夢をかなえさせる物語だったが、この映画で流れてきたのが此のブラームスの大学祝典序曲だった。学問好きの貧しい青年への力強い励ましのメッセージが此の音楽だった。
映画をみた後、とても気持ちの良い余韻が残る映画だった。私はブラームスの大学祝典序曲を聴くたびに此の映画を思い出す。
10層プリント基板での電子回路設計
最近の電気会社等の電子回路設計部門での設計事情は知らないが、私が電気工場の実験室の片隅で自身が設計した回路基板と格闘していた頃・・・もう30年以上前の昔話だが・・・回路設計での至上命令の一つは、いかにして電子回路の実装密度をあげるか、だった。
恐らく現在もそうだろうが、一般に電子回路機器は、当時は多くて20枚程度のプリント基板 (この各基板に電子回路が実装される)と、それらの基板を電気的に接続するマザーボードと称するプリント基板から構成されている。それらに必要に応じて他の部品が適宜接続されている。
通常、各基板はK1サイズ ( 横幅:30cm,縦幅:20cm,厚さ:数mm程度だったと思う) のものが使用されていた。
その各基板の実際の電子回路図はA2用紙一枚に原則として書かれた。だから一般に一つ電子回路機器の回路図はA2用紙で数十枚になった。
当時は余程の制約がない限り、両面に配線パターンがある2層基板が使われた。原則として部品そのものは片面に実装される。
ところが機器の制約上、私は10層基板を使用して回路設計をしなければならなくなった。実装密度をあげるため、そうせざるを得なかった。
その基板の10層のうち1層はベタアース面、他の1層は電源面として、他の8層で実装部品間の接続をした。これにはマイッタ。
比喩として言うと、10次元空間を考えているようなものであった。2層基板程度なら、まぁ、どうということはない。
しかし、10層となると、そのヤヤコシサは経験した者でなければ分からないだろう。
***
さて、その試作品の姿は・・・当然、ジャンパー線だらけであった。
ジャンパー線とは、これは業界用語だろうが、パターン設計ミスで其の箇所を切断し、通常の細い電線で正常に接続することである。まぁ設計ミスの具体的象徴のようなものだ。
***
ともあれ、正直なところ、よほど好きでないかぎり、電気工場の電子回路設計屋などになるものではありません・・・
『神の数式』
以前、NHK・BSで『神の数式』というタイトルの番組が2夜にわたって放送された。
此の世の物理現象を一つの方程式で表そうとする理論物理学者たちの苦闘を記録した科学ドキュメンタリーであった。
***
私は此のテの番組の愛好者である。
以前放送された『リーマン予想』とか『ポアンカレ予想』という数学の超難問の内容が一般視聴者向けに放送されたことがある。これらも大変興味深くみた
。
恐らくプロの数学者でも其のような数学の難問を解くのは勿論のこと、其の命題そのものを理解するのは必ずしも容易ではあるまい。いわんや、一般視聴者においてをや、である。(但し、ポアンカレ予想は最近、ロシアの数学者によって解かれた)
此のテの番組の意義は、言うまでもなく其の解を視聴者に求めているのではなく、そのような問題が『象牙の塔』のみに隠避されている弊害を少しでも無くすことであろうし、また此のような問題の存在を知った少年・少女達が科学に眼を開く動機となるような啓蒙にあるのだろう。
***
足立恒夫という数学者は『無限の果てに何があるか』という一般読者向けの数学の本で、此の本を書いた動機を以下のように書いている。
『数学という学問は一つの巨大な文化の体系である。(中略) ぼんやりとでも現代数学の思想をわきまえていなければ、世界観に欠陥があるのではないか、という挑発的な問いかけのもとに書いた。』と。
恐らく、現代物理学においても同様なことが言えるだろう。
ぼんやりとでも現代物理学が其の先端において何を問題にしているのかということを知らないとしたら、其の人の世界観に欠陥があると言えるかも知れない。
現代は好むと好まざるとに関らず科学技術を無視しては生きていけないからだ。
***
同様なことは金融等の経済学にも言えるのだろうし、私たちは憲法の基に生きているのだから、ぼんやりとでも其れらの知識がなければ世界観に欠陥があると言われても仕方がないのでだろう。
しかし、そう考えていくと生身の人間において、今日ただいまの世界を生きていく上での、ぼんやりとでも常識的な欠陥なき世界観を持つことは容易ではない。
***
では今日において『ぼんやりとでも常識的な欠陥なき世界観を持つ』にはどうしたら良いか。
その解答は私は残念ながら分からない。
***
さて『神の数式』について。
たしかデカルトだったか『神の存在を証明した』そうである。
他の人はイザ知らず、私は此の意味が理解できない。
神は証明できるのか?
同様に『神の数式』の意味が私には理解できない。
私の頭の悪さを棚に置くとして、これは或る種のメタファーとしか私は理解できない。
***
この番組で或る物理学者が言っていたことが印象的だった。
彼は『神の数式』の発見に其の研究生涯を捧げている人だが、以下のような意味のことを言った。
『神の数式を発見できないのは淋しい。しかし其れが発見されたとしても、淋しいだろう。』
この言葉あたりに案外『神の数式』の真の意味が在るように私には思われる。
此の世の物理現象を一つの方程式で表そうとする理論物理学者たちの苦闘を記録した科学ドキュメンタリーであった。
***
私は此のテの番組の愛好者である。
以前放送された『リーマン予想』とか『ポアンカレ予想』という数学の超難問の内容が一般視聴者向けに放送されたことがある。これらも大変興味深くみた
。
恐らくプロの数学者でも其のような数学の難問を解くのは勿論のこと、其の命題そのものを理解するのは必ずしも容易ではあるまい。いわんや、一般視聴者においてをや、である。(但し、ポアンカレ予想は最近、ロシアの数学者によって解かれた)
此のテの番組の意義は、言うまでもなく其の解を視聴者に求めているのではなく、そのような問題が『象牙の塔』のみに隠避されている弊害を少しでも無くすことであろうし、また此のような問題の存在を知った少年・少女達が科学に眼を開く動機となるような啓蒙にあるのだろう。
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足立恒夫という数学者は『無限の果てに何があるか』という一般読者向けの数学の本で、此の本を書いた動機を以下のように書いている。
『数学という学問は一つの巨大な文化の体系である。(中略) ぼんやりとでも現代数学の思想をわきまえていなければ、世界観に欠陥があるのではないか、という挑発的な問いかけのもとに書いた。』と。
恐らく、現代物理学においても同様なことが言えるだろう。
ぼんやりとでも現代物理学が其の先端において何を問題にしているのかということを知らないとしたら、其の人の世界観に欠陥があると言えるかも知れない。
現代は好むと好まざるとに関らず科学技術を無視しては生きていけないからだ。
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同様なことは金融等の経済学にも言えるのだろうし、私たちは憲法の基に生きているのだから、ぼんやりとでも其れらの知識がなければ世界観に欠陥があると言われても仕方がないのでだろう。
しかし、そう考えていくと生身の人間において、今日ただいまの世界を生きていく上での、ぼんやりとでも常識的な欠陥なき世界観を持つことは容易ではない。
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では今日において『ぼんやりとでも常識的な欠陥なき世界観を持つ』にはどうしたら良いか。
その解答は私は残念ながら分からない。
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さて『神の数式』について。
たしかデカルトだったか『神の存在を証明した』そうである。
他の人はイザ知らず、私は此の意味が理解できない。
神は証明できるのか?
同様に『神の数式』の意味が私には理解できない。
私の頭の悪さを棚に置くとして、これは或る種のメタファーとしか私は理解できない。
***
この番組で或る物理学者が言っていたことが印象的だった。
彼は『神の数式』の発見に其の研究生涯を捧げている人だが、以下のような意味のことを言った。
『神の数式を発見できないのは淋しい。しかし其れが発見されたとしても、淋しいだろう。』
この言葉あたりに案外『神の数式』の真の意味が在るように私には思われる。
『無言歌集』(メンデルスゾーン)
20年程前、私は図書館から音楽CDを借りて其れをコピーしていた時期があった。
図書館に置いてあるCDは古いものだからコピーは容易にできた。
私は根がケチだから買うよりもタダでコピーできることは大いに魅力があった。
実にケシカラン男であったわけで私のような人間がいるから今やCD等はコピーできないようになっているようだ。
***
コピーしたCDに掲題のものがある。
実は此のCDは図書館の音楽教材棚に並べられていたCDで、たぶんピアノ演奏初心者練習用のものだろう。
私は音楽は小学生の頃、ハーモノカを吹いていたことがあるが其れ以外楽器には全く無縁な者であって今や口笛さえ吹くのに苦労するし、勿論、譜面など全く読めない。
中学生の時、音楽の理論めいたものの初歩の初歩を習った覚えがあるが其れも完璧に忘れてしまった。
しかしドイツ3大Bはバッハ、べートーベン、ブラームスと習った気がするが、そんなロクデモナイ知識は現在音楽を聴くうえで何の役にも立たない。
***
というわけで私は音楽については押しも押されもせぬ完全な素人であるが、聴くぶんには人並みに聴く。
そんな完璧な素人の判断であるが掲題のCDの演奏は、いかにも音楽の先生が譜面どおりに几帳面にピアノを弾いているように私には聞える。
およそ『けれん』とは、ほど遠い弾き方に聞こえる。音楽の教材なんだから、無用な虚飾は排しているように聞こえる。
私は掲題の曲は此のCDしか聴いたことはないのだが、たまにプロの他の演奏家が弾く此の曲をラジオで聞くことがある。
そういうとき、私は、違和感を感ずることが多い。
その演奏家の此の曲の解釈なんだろうが、なんとも『いやらしく』私には聞こえてしまうのだ。その演奏家の『思い入れ』に鬱陶しくなるのだ。
たぶん此の私の感じ方は、音楽教材のCDに耳慣れているせいだろう。
私は掲題の曲は、音楽の先生による『真面目に、几帳面に』弾かれたものでないと、どうも虚飾を感じてしまうように刷り込まれたらしい。音楽を聴くにも『刷り込み現象』に似たものがあるようだ。
ともかく慣れというものは恐ろしい、というより何事も初体験が肝心らしい。
図書館に置いてあるCDは古いものだからコピーは容易にできた。
私は根がケチだから買うよりもタダでコピーできることは大いに魅力があった。
実にケシカラン男であったわけで私のような人間がいるから今やCD等はコピーできないようになっているようだ。
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コピーしたCDに掲題のものがある。
実は此のCDは図書館の音楽教材棚に並べられていたCDで、たぶんピアノ演奏初心者練習用のものだろう。
私は音楽は小学生の頃、ハーモノカを吹いていたことがあるが其れ以外楽器には全く無縁な者であって今や口笛さえ吹くのに苦労するし、勿論、譜面など全く読めない。
中学生の時、音楽の理論めいたものの初歩の初歩を習った覚えがあるが其れも完璧に忘れてしまった。
しかしドイツ3大Bはバッハ、べートーベン、ブラームスと習った気がするが、そんなロクデモナイ知識は現在音楽を聴くうえで何の役にも立たない。
***
というわけで私は音楽については押しも押されもせぬ完全な素人であるが、聴くぶんには人並みに聴く。
そんな完璧な素人の判断であるが掲題のCDの演奏は、いかにも音楽の先生が譜面どおりに几帳面にピアノを弾いているように私には聞える。
およそ『けれん』とは、ほど遠い弾き方に聞こえる。音楽の教材なんだから、無用な虚飾は排しているように聞こえる。
私は掲題の曲は此のCDしか聴いたことはないのだが、たまにプロの他の演奏家が弾く此の曲をラジオで聞くことがある。
そういうとき、私は、違和感を感ずることが多い。
その演奏家の此の曲の解釈なんだろうが、なんとも『いやらしく』私には聞こえてしまうのだ。その演奏家の『思い入れ』に鬱陶しくなるのだ。
たぶん此の私の感じ方は、音楽教材のCDに耳慣れているせいだろう。
私は掲題の曲は、音楽の先生による『真面目に、几帳面に』弾かれたものでないと、どうも虚飾を感じてしまうように刷り込まれたらしい。音楽を聴くにも『刷り込み現象』に似たものがあるようだ。
ともかく慣れというものは恐ろしい、というより何事も初体験が肝心らしい。
「みるい」という方言
私は今から70年程前に遠州の片田舎に生まれました。故郷を離れてから既に半世紀が過ぎていますから、この地方にあった『みるい』という方言が現在使用されているどうかは知りません。ただ、この方言に関して、ちょっと良い話があるので紹介しましょう。
***
もう随分昔のことです。私が故郷を離れてから、だいぶ過ぎていた頃ですから、昭和四十年あたりだと思います。その頃の或る日、私は何気なくラジオを聞いていました。
『敗戦前後の忘れ得ぬ体験談』という趣旨の番組でした。その番組で、或る女性が『みるい』の体験談を話始めたのです。そのラジオ番組を、ボンヤリと聞いていた私は、思わず聞きいりました。上記したように『みるい』とは我が故郷の方言だったからです。その女性の方の体験とは以下のようなものでした。
***
あの敗戦直後、この女性が、幼い子を連れて、静岡県の田舎に疎開してきたそうです。どういう理由で、その田舎に疎開してきたかは覚えていませんが、ともかく、この若い母親とその幼い子が、見も知らない土地にやって来た。来たものの、見知らぬ土地故、道端で途方にくれていたそうです。当時のことですから食糧難はあたりまえのことで、この親子も、その例外ではなかった。腹を空かしている我が子を連れての見知らぬ土地への疎開ですから、随分と心細かったそうです。
そんなわけで道端で途方にくれていたとき、その土地の人らしい、お婆さんが、ふと通りかかった。そのお婆さんは、その若い母親と幼子の事情を察したのでしょう。幼い子に近寄り、なにがしかの食べ物( おそらく饅頭か何かだったんでしょう )を差し出したそうです。そして、こう言ったそうです。『まだ みるいんだからねぇ』と。そう言って立ち去ったそうです。
その女のかたは、都会育ちでしたから、この『みるい』という言葉は知らなかった。しかし、そのとき、その言葉の意味を彼女は真に理解できたそうです。
***
勿論、私は『みるい』という言葉の意味を知っています。標準語に直せば『未熟』という意味になるでしょう。しかし、この『みるい』には、単に『未熟』だけではないニュアンスがあります。このお婆さんが使った『まだ みるいんだからね』の『みるい』には、『まだ成熟しきれていない者に対する慈しみ』とも言えるニュアンスがあります。 この若い母親は、此の知らない方言に、このニュアンスを感知し、この『みるい』という言葉が忘れられず、『いつか、お会いして、あのときのお礼を言いたい。』と語っていました。
***
方言というものは、いわゆる標準語では表現しきれない、微妙さ・繊細さが、ニュアンスとして言葉の奥に沁みこんでいるものです。現在、全国津々浦々、標準語がゆきわたったことは勿論良いことです。しかし、是非、残しておきたい方言も全国津々浦々に在るに違いない。言葉(方言)というものは、それが使われる人たちの実生活に密着した大事な文化財と言っても過言ではないでしょう。その一つの例が、若い母親が耳にした『みるい』だったのです。『みるい』だからこそ、彼女は、その言葉が忘れられなかったのでしょう。
***
もう随分昔のことです。私が故郷を離れてから、だいぶ過ぎていた頃ですから、昭和四十年あたりだと思います。その頃の或る日、私は何気なくラジオを聞いていました。
『敗戦前後の忘れ得ぬ体験談』という趣旨の番組でした。その番組で、或る女性が『みるい』の体験談を話始めたのです。そのラジオ番組を、ボンヤリと聞いていた私は、思わず聞きいりました。上記したように『みるい』とは我が故郷の方言だったからです。その女性の方の体験とは以下のようなものでした。
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あの敗戦直後、この女性が、幼い子を連れて、静岡県の田舎に疎開してきたそうです。どういう理由で、その田舎に疎開してきたかは覚えていませんが、ともかく、この若い母親とその幼い子が、見も知らない土地にやって来た。来たものの、見知らぬ土地故、道端で途方にくれていたそうです。当時のことですから食糧難はあたりまえのことで、この親子も、その例外ではなかった。腹を空かしている我が子を連れての見知らぬ土地への疎開ですから、随分と心細かったそうです。
そんなわけで道端で途方にくれていたとき、その土地の人らしい、お婆さんが、ふと通りかかった。そのお婆さんは、その若い母親と幼子の事情を察したのでしょう。幼い子に近寄り、なにがしかの食べ物( おそらく饅頭か何かだったんでしょう )を差し出したそうです。そして、こう言ったそうです。『まだ みるいんだからねぇ』と。そう言って立ち去ったそうです。
その女のかたは、都会育ちでしたから、この『みるい』という言葉は知らなかった。しかし、そのとき、その言葉の意味を彼女は真に理解できたそうです。
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勿論、私は『みるい』という言葉の意味を知っています。標準語に直せば『未熟』という意味になるでしょう。しかし、この『みるい』には、単に『未熟』だけではないニュアンスがあります。このお婆さんが使った『まだ みるいんだからね』の『みるい』には、『まだ成熟しきれていない者に対する慈しみ』とも言えるニュアンスがあります。 この若い母親は、此の知らない方言に、このニュアンスを感知し、この『みるい』という言葉が忘れられず、『いつか、お会いして、あのときのお礼を言いたい。』と語っていました。
***
方言というものは、いわゆる標準語では表現しきれない、微妙さ・繊細さが、ニュアンスとして言葉の奥に沁みこんでいるものです。現在、全国津々浦々、標準語がゆきわたったことは勿論良いことです。しかし、是非、残しておきたい方言も全国津々浦々に在るに違いない。言葉(方言)というものは、それが使われる人たちの実生活に密着した大事な文化財と言っても過言ではないでしょう。その一つの例が、若い母親が耳にした『みるい』だったのです。『みるい』だからこそ、彼女は、その言葉が忘れられなかったのでしょう。
私の世界観を変えた三つのこと
少し大げさな言い方だが我が半生を振り返ってみるとき、私の『ものの見方』を変えたな、と思うコトが3つほどある。 こういうことを書くと衒学趣味と思われる方がいるかも知れない。私はもう少しで古希。今更、衒学でもあるまいし、又私のブログを見る人は限りなく零に近いから、そんなことは杞憂を取り越してアホくさい心配事である。
***
・1番目( 個と全体について )
1980年代頃、いわゆるニュー・サイエンスが流行した。その流れの一つにライアル・ワトソンという人がいた。私はこの人のファンであった。この人が解説した『生命潮流』という番組がTVで放送された。本もある。本はともかくとして、テレビで放送された或る短い記録映画をみて私は愕然とした。それは、ある菌類の生態を記録したものだった。その菌類は食物が充分なときは個々で活動している。しかし、食物が不足してくると、その菌類は互いに集まってきて、一つの生命体に変身してしまう。動き回るのも全く一つの生命体として活動する・・・という見事な記録映画だった。
要するに『個と全体』という形而上の問題が、現実の菌類で具現化していたのだ。
また私たちの住む地球を一つの生命体としてみる、というJ.E.ラブロックの『ガイア仮説』も、その頃発表され、私はそれにも大いに感化された。
『個と全体』というコトは分離して考えられるものではなく、あるときには『個』、あるときには『全体』となるという分離し難いモノである、という謂わば『哲学的命題』が、その記録映画は現実の菌類の生態でまざまざと私は見せ付けられた。この現実世界の生態を見て私の世界観は確実に変わったように思う。
・2番目( 無限には大小がある )
これを知らされたとき私は大きな知的ショックを受けた。私には思いも及ばないコトだった。凄いと思った。G.カントールの実無限の発見の話である。更に、順序数という考え方は更にショックだった。人間の思考というものの凄さを具体例として見せつけられた、というショックであった。このシヨックは3番目と関連してくるのだが今だに私は感じている。
・3番目 (人間の理性には限界がある )
ゲーデルの不完全性定理である。この定理を完全に理解するには数学基礎論のドクターコースにいかなければ不可能だそうだが、その定理の証明の理解にはそうだろうが、この定理の結論は一応は理解できる。つまり、人間の理性には原理的に限界があるというのだ。私はそれを知らされたときもショックを受けたし未だ受け続けている。
***
簡略に書いたが以上が我が半生において、私の世界観を根底から変えたと思っているコトである。私は以上の3つのことを今で゛も反芻し私なりに考え続けている。
この3つのコトに比べれば人類の月面着陸は私には知的ショックとしては少ない。大変な人類の偉業であることは分かるが。
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・1番目( 個と全体について )
1980年代頃、いわゆるニュー・サイエンスが流行した。その流れの一つにライアル・ワトソンという人がいた。私はこの人のファンであった。この人が解説した『生命潮流』という番組がTVで放送された。本もある。本はともかくとして、テレビで放送された或る短い記録映画をみて私は愕然とした。それは、ある菌類の生態を記録したものだった。その菌類は食物が充分なときは個々で活動している。しかし、食物が不足してくると、その菌類は互いに集まってきて、一つの生命体に変身してしまう。動き回るのも全く一つの生命体として活動する・・・という見事な記録映画だった。
要するに『個と全体』という形而上の問題が、現実の菌類で具現化していたのだ。
また私たちの住む地球を一つの生命体としてみる、というJ.E.ラブロックの『ガイア仮説』も、その頃発表され、私はそれにも大いに感化された。
『個と全体』というコトは分離して考えられるものではなく、あるときには『個』、あるときには『全体』となるという分離し難いモノである、という謂わば『哲学的命題』が、その記録映画は現実の菌類の生態でまざまざと私は見せ付けられた。この現実世界の生態を見て私の世界観は確実に変わったように思う。
・2番目( 無限には大小がある )
これを知らされたとき私は大きな知的ショックを受けた。私には思いも及ばないコトだった。凄いと思った。G.カントールの実無限の発見の話である。更に、順序数という考え方は更にショックだった。人間の思考というものの凄さを具体例として見せつけられた、というショックであった。このシヨックは3番目と関連してくるのだが今だに私は感じている。
・3番目 (人間の理性には限界がある )
ゲーデルの不完全性定理である。この定理を完全に理解するには数学基礎論のドクターコースにいかなければ不可能だそうだが、その定理の証明の理解にはそうだろうが、この定理の結論は一応は理解できる。つまり、人間の理性には原理的に限界があるというのだ。私はそれを知らされたときもショックを受けたし未だ受け続けている。
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簡略に書いたが以上が我が半生において、私の世界観を根底から変えたと思っているコトである。私は以上の3つのことを今で゛も反芻し私なりに考え続けている。
この3つのコトに比べれば人類の月面着陸は私には知的ショックとしては少ない。大変な人類の偉業であることは分かるが。
一電子回路設計屋の思い出
小学生の頃、私は江戸川乱歩の探偵小説が好きだった。明智小五郎が、例えば紫式部を読んでいるとはとても思えない。数学か物理の本を読んでいるに違いない。という理由で、私は当然のごとく自分は理系に進むと決心していた。笑うなかれ。
あの頃、電子工学というものに何の根拠もなく私は憧れていた。電子、いいじゃぁないか! 神秘的だ!。 明智小五郎も好きに違いない!。 という極めて幼稚な理由で( 幼稚!! いいじゃぁありせんか幼稚で・・・)、幼児が綿菓子を求めるが如く、私は電子工学者になるべく猪突猛進した。あの頃( 中学生の頃か )、何の理由もなく法学部だの経済学部などは軽蔑しきっていた。文学部は・・・私は探偵小説が好きだったから、まぁ「許してやろう」と思っていた。笑うなかれ。
***
というわけで、結局、私はある電気会社の電子回路設計者に目出度くも、あいなった。
ところが・・・。
***
たぶん多くの人は、電気会社の電子回路設計部という世界の実態を知らない人が多いだろう。
以下は私の、あくまでも私の個人的な「実態」の一部を披露してみよう。その実態は、『春はあけぼの・・・』とは全くかけ離れた異質の世界であり、極端に言えば地獄の如く冷徹な世界であった。あまっちょろい世界では、ゆめゆめ、ない。
***
言うまでもなく、電子回路設計というのは、いわば自然現象を「設計」する。その自然現象は人情などさらさら通用しない世界だ。あたりまえのことだ。自分が設計した回路が試作装置に組み込まれ、いざ電源スイッチを入れて煙が出たとき・・・試作機というものは先ず煙が出るものなんだよ、ーーー即ちトラブルが露呈するのだが、そこから回路設計屋の悪夢が続く。
***
電子回路は冷徹に自然法則に従う。煙が出ようが容赦はしない。設計者が青ざめてトラブルを解決すべく徹夜しようが、『駄目なものは駄目』(この言葉アノ人、言ってなかった)と突き放される。『ああ、エンジニアになるんじゃぁなかった』と何度ため息をついたことか。しかしエンジニア冥利につきる時もないではなかった。それは回路設計計算をキチンとし、その回路がキチンと動作した瞬間だ。「やった!!」。この瞬間ね。至福な時は。しかし大抵は青い顔して、測定機器に囲まれ、孤独に、自身が設計した回路盤と格闘している時のほうかが圧倒的に多かった。
***
設計時に叩き込まれるのは、Q・C・Dの重要性。Qは品質。Cはコスト。Dは納期。Q,Cはともかくとして、現実生活者として一番苦しめられるのはD。納期近くなると、全ての設計者は残業が続く。Dの数日前は、ほぼ徹夜が続く。若くなければエンジニアなど、やってられませんね。ともかく、いろいろな意味でキレイコトが通じない世界ですよ。
『世の中のためになる機械を作る』とか或る趣味人の人が言ってましたが、『それはそれは、ようござんすね。こちとらは、それどころでは、ありませぬて。』 これが、少なくとも私の偽わざる本音だった。
***
私は10層基盤を設計したことがある。基盤というのは、たとえばPCを空けると、青色の板があるでしょう。あれのこと。現在はどうか知らないが、当時は、その板の両面にプリント配線をしていた。配線と言っても部品同士を3次元的に配線するのではない。部品が乗った板(盤)の面そのものに配線するのだ、と言っても理解できないかも知れない。
10層基盤の配線というのは、あらっぽい感じで言うと、部品を10次元で配線すると思えばいい。この10層基盤の設計にはマイった。
***
などなど。みなさんの周りにある電気機械には、上記のごとき、エンジニア達の汗と涙がにじんでいるのです。そして、もし貴方のお子さんがエンジニアで、青い顔して帰宅されたら、どうか、そのお子さんの『自然現象との戦い』に思いをはせてやってください。
咳をしても一人
咳をしても一人
有名な尾崎放哉の俳句です。
以下はWikpediaに掲載されている尾崎放哉の人物像です。
『吉村昭によると、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという。(中略)
吉村が1976年に取材のため島を訪ねた時、地元の人たちから、「なぜあんな人間を小説にするのか?」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている。』
貴方は此のような人物と関りをもちたいですか?
たぶん、NOでしょう。私だって後免こうむりたい。
しかし掲題の俳句に私は惹かれるのは事実です。此の寂寥感は、たった5文字なのに、いや、たった5文字であるが故に、おそらく全ての人が共感するであろう普遍性をもっていると私は思います。そのような、おそらく時空を超えた普遍性を持つ
俳句というより芸術を生み出す代償が上記のような人物であらねばならぬとしたら、芸術とは何と皮肉で残酷なものでしょう。
私たちは、概して、芸術の果実を飽食しながら、その芸術を生み出した人たちの惨憺たる苦渋を忘れがちです。しかし、それがイケナイということではない。
芸術というものは本来そういうものでしょうから。
ただ私はここで芥川龍之介の以下の警句を思い出さざるを得ないのです。
『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩をの千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いてゐる。』
この警句の極端な例が尾崎放哉であり、種田山頭火でしょう。
いや、彼らほどでなくとも、私たちが現在『香を焚いてゐる』芸術たちの果実を、私たちは無邪気に飽食している。
繰り返しますが、其れがイケナイということではない。芸術というものは、所詮、そういうものでしょうから。ただ、私たちは其の飽食の途中での一瞬でも、その作者達の苦悩に思いを馳せることも決して無益なことではありますまい。
ネアンデルタール人の「死の発見」
最近、ネアンデルタール人の埋葬が改めて確認されたという。
ネアンデルタール人が埋葬という行為をしていたということは、彼らは『死』というモノを知っていたことを意味している。
彼らが其の『死』について、どのような概念をもっていたかは私は知らないが、『死というモノがある』ということは少なくとも認識していたようだ。
ホモ・サピエンス・・・ネアンデルタール人以降の人類・・・以外の生物でも恐らく『死』というモノを認識している生物は私は存在するのではないかと推測するがどうであろうか?
即ち、埋葬という行為をする生物はホモ・サピエンスだけだろうか?
私の勘違いかも知れないが、象が埋葬と似たような行為をするという記事を見たような記憶がある。
もし其れが事実ならば象は『死』という概念を、ホモ・サピエンスほど明瞭ではなくても持っていることになる。
***
アーサー・ケストラーは彼の著書『ホロン革命』で、ホモ・サピエンスの先天的病いとして彼らの・・・ということは我々人類の、ということだが・・・『死の発見と其の拒絶』について書いている。
『死の発見』が、どうしてホモ・サピエンスの先天的病いとなるのか、興味がある人は其の著書を読んでもらいたいが、アーサー・ケストラーの説が正しいとすれば人類の祖たるネアンデルタール人は既に先天的病いを背負っていたことになる。
そういう意味で此の記事は私には興味深い。
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