2014年10月23日木曜日

ブライアン・イーノの曲と科学のこと

随分前の話だがテレビの或る科学番組で・・・その番組は確か現代物理学の一般庶民向けの解説番組だと記憶しているが・・・ブラアン・イーノの『THE DANCE』がBGMとして流れた。
 実はそのとき、私はブライアン・イーノという人を知らなかったが、そのBGMの曲は印象に残った。
 その頃、私はNECのPC-VANの会員であったが、その会員の中に大変音楽好きな人がいた。その人は工学部出身の人で例の番組をみたらしかった。
 そこで其の番組が話題になったとき、そのBGMはブライアン・イーノという人の曲『THE DANCE』であることを其の人から教えられた。私は其の曲が強く印象に残っていたので早速其の曲のCDを買った。
 この曲の私の印象は、なんと表現したら良いか、素粒子が放散しているような感じがあり、そういう意味で現代物理学風であり、そのテレビ番組の内容にマッチしていた。
 しかし、同時に其の曲『THE DANCE』は、タイトルどおり、どこかインドあたりの古典舞踊をも私に連想させた。
 この頃は・・・'80年代だが・・・いわゆるニュー・サイエンスが時代精神として盛んな頃だった。
 フリシチョフ・カプラの『タオ自然学』が此の頃の科学の時代精神の象徴だった。科学において、いわゆる東洋思想が見直され、其れを科学において重視する時代潮流があった。 この本は今でも売られている。
 そういう時代精神があったから、現代物理学の解説に使われた『THE DANCE』が、私にインド古典舞踏を連想させたのは当然だったかも知れない。
 私が購入したブラアン・イーノのCDには、『THE DANCE』と共に『MEDITATION』という曲も収録されている。
これも東洋風の瞑想』を連想させる。
 ***
今世紀に入って科学は'80年代に全盛だったニュー・サイエンスから離れ、それ以前の『分析主義』主流の科学に戻り、ニュー・サイエンスは一時の流行に終わった観がある。
 ブラアン・イーノ自身は科学とは何の関連のない人だが・・・彼は自らをノン・ミュージシャンと称しているようだ・・・私は『THE DANCE』や『MEDITATION』を聴くと'80年代の頃を思い出す。
 そして、これらの曲は科学云々を離れて、今でも私の好きな音楽の一つであり、今でも繰り返し聴いている。
ということで・・・

http://www.youtube.com/watch?v=_hes0hRY9v8

カルミナ・ブラーナ (カール・オルフ作曲)

ウィキメディアによれば此の音楽は、『楽器群と魔術的な場面を伴って歌われる、独唱と合唱の為の世俗的歌曲』という副題がついているそうで、『混声合唱、少年合唱、ソプラノ・テノール・バリトンのソリスト、大規模なオーケストラという大きな編成である。酒や男女の睦み合いなどを歌った詞に、シンプルな和音及び強烈なリズムが特徴。20世紀を代表する楽曲である』と書いてある。
そもそも「カルミナ・ブラーナ」とは19世紀初め、ドイツの修道院で発見された詩歌集で『歌詞の内容は若者の怒りや恋愛の歌、酒や性、パロディなどの世俗的なものが多く、おそらくこの修道院を訪れた学生や修道僧たちによるものと考えられた。』そうだ。
私は今迄この音楽は断片的に聴いたことがない。ところが先日、NHK・BS(N響)で上記の大編成による此の音楽が全曲放送された。
私は「待ってました」とばかりに聴いたのだが、予想どおり其の音響の怒涛に圧倒された。『シンプルな和音及び強烈なリズム』は、まさにボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ戦を見ているように私を興奮させた。
歌唱は何語で歌われたのか無知な私には判断ではないが、字幕を追っていくと確かに世俗的な、というより卑猥とさえ言えるシロモノであり、とてもお上品な詞とは言えない。修道院という抑圧のもとにあった修道僧たちの裏面・・・これは実に人間的とも言えるのだが・・・が垣間見える歌唱であった。
私は此の音楽にノックアウトされた。当然、HDからBDへと保存した。
***

楽器群と歌唱が混然として一体となった音楽で私が好きなものは、ワグナーのいくつかの楽劇とマーラーの『大地の歌』がある。いずれも特有な「媚薬」があるが、パンチの強さにおいてはカルミナ・ブラーナには及ばない。

笠智衆という俳優さん

私は笠智衆という俳優さんが好きである。
どこが好きかと言われても実は困る。
好きだから好きなのだ。

私は、笠智衆という俳優さんは大変器用な俳優さんだと思っている。

ここで『器用さ』という言葉は決して『技巧』のみを意味しているのではない。

なにか『人間的な味わい』というような意味も、その『器用さ』に含ませている。

よく言われるように、この『器用さ』を引き出した人は小津安二郎という天才かも知れない。

恐らくそうだろう。
しかし、もともと笠智衆という人に、そのような『器用さ』が内在していなければ、たとえ天才といえども、その『器用さ』を引き出すことは出来ないはずである。。

では、その『器用さ』とは?

具体例を二つ出そう。いずれも小津安二郎の映画である。

一つめ。下は『長屋紳士録』の中の一場面である。
                       
http://www.youtube.com/watch?v=XK4ccsCI6Wc

二つめ。下は『彼岸花』の中の一場面である。

http://www.youtube.com/watch?v=rbQw09HF8To

私は、これらの映画の笠智衆に、上記した『器用さ』を感じている者であり、また、それゆえにも、笠智衆と言う人に敬愛を感じている者の一人だ。



注:上のYou TubeのIRLは現在削除されている。

2014年10月22日水曜日

『グレート・ビキン』と『遺伝』(萩原朔太郎)

数年前のNHK・BSで、『グレート・ビキン』というドキュメンタリー番組が放送された。
このドキュメンタリーは2004年制作だから、劇場等でご覧になった方も多いだろう。
このドキュメンタリーの内容の詳細は下記リンク先で紹介されているから、それをざっとみていただきたい。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4155

上のリンク先で解説されているように、このドキュメンタリーの主題は、一口で言えば、『私たちは何処から生まれ、何処へ去っていくのか?』とでも言えると私は思うが、この主題は、この宇宙生成と消滅へと拡大されている。

私たち人間も含めて『いきもの』は、この宇宙で拡散浮遊している、言わば塵(ちり)から生成されたものであり、やがては、再び、この宇宙への塵へと消滅・拡散していく。この世の全ての物象は、この地球での、つかのまの存在であり、その存在は、地球をも包む大宇宙の中へと消えてゆく。そして再び、その拡散した塵は集結し、この宇宙でなにものかの物象として生成していく。時間という概念を更に超えた超時間の間の輪廻転生と言えるのかも知れない。

このドキュメンタリーの背後から以下の『つぶやき』が聞こえてくるように感ずるのは私ばかりではあるまい。確かに、このドキュメンタリーは背後に形而上の問題も提示している。

『生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに罔(くら)く、死に死に死に死んで死の終わりに罔し』(空海)

『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?』(パスカル)

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このドキュメンタリーのハイビジョンで放送された映像の美しさ、というより生々しさには圧倒された。特に人間の子宮内の胎児の映像は圧巻であって、まるで胎児を直接目撃しているような生々(なまなま)しさだった。どのようにして撮影したのだろうか。また自身の頭部より大きい卵を飲み込む蛇の生態の凄さ。 ここでは『いきもの』のもつ冷徹さも見据えている。
***
詩人の感覚というものは鋭いと私はつくづく思う。このドキュメンタリーが提示していると私が感じている感覚。それは『いきもの』の原初的で根源的に罔(くらさ)だ。この罔さは、この大宇宙のなかでの『いきもの』の罔さでもある。冥土的な罔さと言い換えてもよいかも知れない。宇宙の中の『いきもの』の原初的・根源的な罔さ。この詩人は見事にそれを表現していると私は思う。このドキュメンタリーの背後にある形而上の命題は、この詩によって言葉で表現されている。

『遺伝』(萩原朔太郎)

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
   のをあある とをあある やわあ

「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
    のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのですよ。」

2014年10月19日日曜日

『空車』(森鴎外)について

私は此の『空車』の後半部分を読むたびに、鴎外の『妄想』に書かれた或る箇所を連想する。その箇所を引用してみよう。(『空車』の前半部分は私は興味がない。)
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(前略)自分は辻に立っていて、たびたび帽をぬいだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大ぜいあったのである。
帽はぬいだが、辻を離れてどの人かのあとについて行こうとは思わなかった。多くの師にはあったが、一人の主にはあわなかったのである。
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此の空車は鴎外の主のメタファーかも知れない。
いずれにしても『空車』の後半の文章は鴎外以外には書けない文章だと私は思っている。

そして現代日本語で書かれた最高の文章の一つだとも私は思っている。

2014年10月15日水曜日

『高瀬舟』(森鴎外)と安楽死

中学生の頃、国語の教科書で読んだ人も多いだろう。

後期の鴎外の一連の史伝での晦渋な語彙は此の短編にはなく、平易な文章で書かれているからだ。

だからといって、安易な文章では決してない。
鴎外流の無駄のない筋肉質な簡潔な文章は現在読んでも快い。

大岡昇平の言葉を借りれば「均整のとれた観賞的態度で貫かれている」のだ。

この『高瀬舟』は大正五年一月に書かれているが、芥川龍之介の「鼻」「羅生門」などの初期の歴史小説は、『高瀬舟』から出たと言っても過言ではないと大岡昇平は書いている。

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よく知られているように此の『高瀬舟』は安楽死の問題をテーマにしている。この短編が書かれた頃は安楽死という日本語は無かったのか鴎外はユータナジィというフランス語を使っている。

この短編では鴎外は明らかに或る状況下での安楽死を肯定している。

この短編が書かれた頃の世間常識では此れは特異な見解だったかも知れない。

あるいは今日においても、如何なる状況下でも安楽死を認めない宗教があるかも知れない。それほど、安楽死という主題は重い問題であることは間違いない。

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安楽死という問題は、鴎外は此の短編において時代を先取りした観がある。

鴎外は医者でもあったから鴎外にとっては身近な問題だったのだろう。鴎外の時代でも医者の間で安楽死をさせることの当否の両論があったらしい。

そして今日において安楽死の是非は我々庶民レベルでも切実な問題となっている。

事実、私の父が脳梗塞で倒れ生死の境をさ迷っていたとき、担当医は状況によっては安楽死させるか自然死を待つか決めておくように私に言った。

いかに苦しかろうが自然死を待つか、無為な苦しみから解放させるべく安楽死させるか、その選択をしておくように担当医に言われたものだ。

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この『高瀬舟』での鴎外は「無為な苦しみを長引かせるより安楽死をさせる」ことを肯定している。

ここで問題となるのは『無為な』であるが、その判断の困難さだろう。医者は万能ではない。その判断を全面的に医者に委ねるのは酷だろう。

結局のところ、『無為か否か』を決めるのは当人しか、あり得ない。しかし現実には其れを決める当人が死線をさ迷う状態ならば、他人が決めるしかない。

だから、よく言われることだが、自分自身の始末は其の判断ができるときに決めておき、出来る限り文面化しておくのが此の超高齢化社会においては、もはや他者への義務だろう。

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今や、「いかに生きるべきか」よりも「いかに死ぬか」のほうが、社会的・文学的あるいは哲学的、ひいては一般社会常識での切実な問題になっていると私は思っている。

2014年10月14日火曜日

『山椒太夫』(森鴎外)の安寿


10年程前、私は盛んに2CHを覗いていた。その頃の話だが、確か『溝口健二』のスレッドがあって、話題が溝口の映画『山椒太夫』に及んでいた。

そのとき誰だが以下のようなコメントを書いていた。

溝口の映画『山椒太夫』において、安寿を厨子王の妹にするのは、溝口は万死に値する。 そういうコメントであった。

私はそれを見て、大いに同感するとリコメントした、。
安寿を妹にするのは、溝口は全く鴎外の小説を理解していない、とも私は書きそえた。
***
ここで鴎外の小説に登場する女性たちを思いつくままに列挙してみよう。

先ず、安寿。 『御寺院原の敵打』の「りよ」。 『安井夫人』の「さよ」。 『最後の一句』の「いち」。 『じいさんばあさん』の「るん」。 『澁江抽斎』の「五百」。等。

これらの女性たちには共通点がある。

外柔内剛型で自律心・自立心を秘めた、言ってみれば長女タイプである。
『最後の一句』の「いち」が其の典型である。

そして彼女たちは容姿は『じいさんばあさん』の「るん」が其の典型である。
鴎外の其の描写を引用してみよう。

『るんは美人という性(たち)ではない。もし床の間の置物のような物を美人としたら、るんは調法の出来た器具のような物であろう。』

こういう女性たちに対する鴎外の視線は明らかに好感をもっている。
いや、もう少し強く言えば、敬意をもって彼女たちを見ている。
それは小説を読めば容易に分かる。

***

だから、安寿は厨子王の姉でなければ此の短編は成立しない。

安寿の献身は、その入水は、姉でなければ成立しないのだ。

ここらへんの綾(あや)を溝口たちは理解していない。
私が溝口の『山椒太夫』を愚作だと断定する利用は其処にある。

故に例の2CHのコメントに同感の意を私は書いたのだった。

***

山本周五郎や藤沢周平の女性に対する視線は鴎外の其れと似ていると私は思っている。

『通りゃんせ』という童歌

『通りゃんせ』という童歌がある。

以下の歌である。
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通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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私は昔から此の童歌に或る不気味さを感じていた。

「行きはよいよい 帰りはこわい」とは何が怖いのだろうかと。

そこで、だいぶ前になるが、2CHの映画『悪魔の首飾り』というスレッドで・・・このスレは現在ないが・・・訊いてみたことがある。

一体何が怖いのか? と。

すると或る人が以下のような趣旨のコメントをくれた。

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子供が生まれると親は天神様にお札を貰う慣例があった。この子が健康に育つようにとお札を貰い御加護を受けるというのだ。

ところが其の子が七つになると其のお札を天神様に返すことになっていた。

其のお札を天神様に返すと、其の子は天神様の御加護がなくなる。

だから、『行きはよいよい 帰りはこわい』。

つまり、お札の返却後は其の子は天神様のご加護が無くなり、これからは何事も自力で困難に立ち向かわなくてはならない。

お札の返却は、子供から大人への通過儀礼だ、という趣旨のコメントだった。

***
私はナルホドと思ったものだ。サイトで調べると此の唄の由来は他のものもある。

いずれにせよ、此の歌には「生きる」ということの或る根源的な暗さを内在しているようで、上記した解釈も私は今も何故か忘れられない。