私が大学3年生頃だったかな、柴田翔の『されど、われらが日々ーー』という小説が文芸春秋に掲載されていた。ネットで調べると第51回芥川賞受賞となっている。
私は其の頃、家庭教師のアルバイトをしていた。アルバイト先は、現在、在るのかどうか知らないが目蒲線の「矢口の渡し」という風流な名の小さな駅で降りて、歩いて10分程度の家の高校3年生の家庭教師だった。その家は名前は忘れたが小さな工場を経営していた。その家の奥さんは少し色黒な小柄の人で気さくな人だった。
その高校3年生(以後A君と呼ぶ)は早稲田高校(早稲田大学とは無関係の学校)在学中で、数学の家庭教師をしてほしいとのことだった。夕方6時頃から夜9時頃まで家庭教師する約束であったが、慣れてくると、私は数学のみならず物理も教師するようになり(但し、私が自発的にそうしたのであってバイト先からの要望ではなかったが)、夜9時を過ぎることが多かった。
その理由はA君は建築工学志望であったから、物理は受験に必須だったからである。私は大学受験での数学、物理は得意だったから教えるのは楽しかった。
家庭教師をしているとき、決まって7時半頃、奥さんが、家庭教師している部屋・・・その8畳位の部屋には私とA君が居るだけだったが・・・そっと襖(ふすま)を開けて入ってきて無言で、ケーキとお茶の差し入れをするのだった。
A君には姉が一人いた。家庭教師の最初の日、ささやかなモテナシをしてくれて其のとき、その姉も同席していて・・・この人は闊達そうな人だった・・・自分は今、国学院へ通っていると言った。
あるとき、目蒲線で彼女と出会ったことがあった。そのとき、当時、世間で話題だった上記の『されど、われらが日々ーー』が我々の話題にもなった。彼女は読んでなかったようだったが、おくすることもなく闊達に喋った。現在でも其のときの彼女の態度を好感をもって思い出すことができる。
私は理系の者だから、そのとき異性の友人というのは皆無だったから、彼女との会話は楽しかった。時間にすれば、たった20分程度の会話だった。その日、彼女が自宅へ入るとき、「ただいまー」と大きな声で言った。私がA君と顔を合わせたとき、彼は少しニャと微笑した。姉と同伴だと分かったからだろう。
今から思うとA君の此の姉に私は、ささやかな恋心めいたものがあったのだろう。そういうこともあって、『されど、われらが日々ーー』は私には忘れ得ぬ小説となった。
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私のいた大学の同期生に、よく文庫本を読んでいる友人がいた。彼も読んでなかった。彼に此の小説の内容を簡単に説明すると福永武彦の「『草の花』みたいだな」と言った。私は其のとき『草の花』は読んでなかったが、後年、読んだ。
それはともかくとして、『矢口の渡し』駅からバイト先まで歩いていると、平凡な下町の町通りに夕陽が射しているときがあり、いかにも「ALWAYS 三丁目の夕日」よろしく、私には懐かしい昭和の面影となっている。
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私はA君の入試の1カ月程前、風邪をひいてしまい、その旨、電話でバイト先へバイト中止の連絡をした。バイト料金は7千円・・・当時、私には身にあまる高額だった・・・を既に貰っていたから返却する旨を伝えた。そしたら奥さんが「いいのよ、そんなこと」と言った。
A君の第一志望高は早稲田の建築科だったが、後年、知ったことだが、その年、理科大の建築科に合格し、A君や奥さんたちが喜んでいることを知り、私は内心ほっとしたものだった。
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『されど、われらが日々ーー』の物語の始めに以下のアポリネルの詩が載っている。
『思い出は狩の角笛 風の中に声は死にゆく・・・』
私は此の詩の断片をみるとき、私の、まぎれもない青春の一頁を今でも懐かしく思い出す。