2014年11月18日火曜日

科学について

『理性とは何か』という問題は私には手に負えない問題なので、それをタナにおいて、科学に問題を変えましょう。現代はまさに科学の時代ですよね。科学及科学技術は、好むと好まざると関わらず現代人の抗うことの出来ない、言わば『聖書』です。

 現代においては学問とは事実上科学の別称ではないですか。
 科学的手法こそ事実上、全ての現代の学問の研究手法ではないでしょうか。
だから現代においては、ゲーデルの不完全定理が提示している問題を考えるとき、その対象を科学に向けるのが最も現実的であり、机上の空論に終わらない議論になると私は思います。

では科学(的手法)とは何か? いわゆる科学(的手法)を重視する最初の人はガリレオですかね。ガリレオは自然観察において、理論のみならずと、その理論の正しさを証明する実験を重視した。また理論においては数学を導入した。ここらあたりは科学史の教科書にも載っていることでしょうか。

デカルトの方法序説には以下のことが書かれているそうです。
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ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
1. 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
2. 考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
3. 最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
4. 何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)
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これは、まさしく科学(的手法)だと私は思います。だからデカルトとガリレオのいずれかが科学の父であるかということは不毛なことですので、上記のデカルトの手法が科学の手法だと、ここではしておきましよう。(余談ですが'80年代頃、デカルトの還元主義が徹底的に批判されて、いわゆるニュー・サイエンスが叫ばれたのですが、結局、現在は還元主義に戻ってしまっているようです)。

この科学(的手法)の成果は今更言うまでもなく大成功をおさめ、今や、この科学的手法が全ての学問をも制覇し、現代の人類の思考をも制覇し、人類にとって絶対的な存在になりました。言わば、現在の絶対的宗教とも言えるべきものは科学です。

 科学(的手法)は私は素晴らしい手法だと思います。この『宗教』は、誰にも開かれており、人類の差別とは全く無縁であり、空疎な教義など存在しないし、科学における『正しさ』は誰にも検証できるし逆に誰にも検証できないモノは『正しくない』のです。
この科学(的手法)、いいかえれば、デカルト的手法の『公平さ』が、全世界に受けられたのは当然です。今や文明化とは科学化であることだっと言っても言いすぎではないでしょう。

『ゼロリスクの罠』

掲題の本のタイトルは『ゼロリスクの罠---「怖い」が判断を狂わせる』(佐藤健太郎、光文社新書)だが、此の本の書評が或るホームページで紹介されている。

本来は此の本自体を読むのがベストだろうが、上記の書評だけでも私には充分である。

 以下の文章だけでも、私自身大いに反省すべき点が指摘されていて身に染みる。いくつか引用しよう。

・「危険」は実在するが,「安全」は実在するものではない。

・つまり,「安全」とは幻影にすぎないのだ。

・私達はどう考え,どう行動すべきかについて考察するのが本書であるが,その基本思想は「現実を知り,お伽話を排除し,無知による恐怖を取り除く」ということになると思う。

・このようにして、私たちは常に7000ベクレルの内部被爆を受けているのである。このような事実を無視して、放射能を怖がっても意味がないのである。怖がるのは正しい知識を得てからでも遅くないはずだ。

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この書評を読んだだけでも、いかに私(たち)が、己の無知により翻弄されているかが分かる。

 事実、当地の新聞には当地のどこそこの放射能線量が何ベクレルかというマップ掲載されていたし、また食品の放射性物質の検査結果表が掲載されていた。

 果たして、私(たち)は此の放射能汚染についても、
 『お伽噺』に翻弄され無用な恐怖を煽られてはいないか?

 『現実( 真の知識 )を知る』ということが如何に大切か、何よりも私(たち)自身にとって。

それを教えてくれる書評である。

e^iπ=-1という公式の神秘

数学のなにものかに神秘を感ずるのは大抵、数学的才能の無い人だそうである。そうならば私は全く数学的才能は完璧に零である。いまさら、零であろうがなかろうが、どうでもよいのだが、e^πi=-1 という公式(オイラーの公式)は見れば見るほどスゴイ。美の極みと言っても言いたりない。

この公式は確か『博士の愛した数式』という映画(原作の同名の本もあるようだが)に出てきたから知っている人も多いだろう。

ここで私以上のド素人に説明を加えておくと、この公式のe,^,π,iは以下を示す(-1は、いくらなんでも知ってるだろ?。)

e は自然対数の底といって、知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な定数。πはご存知『半径に対する円周の比』で、これも、この世の自然現象の超基本的な定数。^はベキ乗の記号。iは虚数単位で、これも知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な値。これで、記号の意味は解ったことにしよう。

 要するに、e,π,iは、この世の自然現象の要の要の要の・・・・超基本的な定数なのだ (これらの一個でも、もし存在しなかったら、この世の文明はおろか、この世自体も有り得ないという、凄いシロモノなのだ。)

その凄い、この世の3つの基本定数がe^πi=-1という単純極まる式で関係づけられている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

すごい、というより、まさに美の極致だね、私に言わせれば、いや私だけでなくても誰でもそう思うだろう。 ダ・ヴィンチのモナリザなど、この美に比べれば、言葉は悪いが屁みたいなもんだぜ。

え?! 美しいと思わない 。ああ、あんたは不幸な人おヒトだ。
というより、日本の数学教育根本的な大変革が必要だ!!

SNSでの孤独

趣味人倶楽部という年配者を対象にしたSNSがある。
このサイトは入会者は日記を書くことができ、入会者のほとんどは日記を書いているようだ。

このサイトに数日前に入会した或る人が退会するという。
 私は、たまたま其の人の日記が目にとまり興味を覚え、その人の此のサイトでの短い期間の日記を毎日読み、かつコメントも書いてきた。

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このようなサイトで日記を書く理由は人それぞれだろう。

ある人は自身の「何か」の披露であり、その「何か」の賛同者の出現に快感を覚え、その快感そのものが日記を書く主な動機となっていくだろう。

もし、そうでないなら、なにも此のようなサイトに書く必要もなく自身のノートなり、PCのHDへ書き込むなり、然るべきメディア等へ投稿するなりして、コト足りるはずだからだ。

このような志向の人の、SNSで日記を書くということの行為の危険性は賛同者の不在による失望感で傷つき易いということである。

つまり、そのような志向の人の日記を書く真の動機は自身の「何か」の披露ではなく、他の人との人間的な親密な接触にある。

 簡略して言えば、そのような志向の人は自身の孤独感から日記を書いているのであり、その孤独感を薄めるために他の人との親密な接触を実は求めている、と断じてよいように私には思われる。

そして、このような志向の人は、その志向が強いほど、他者の反応に過敏であり、その結果、逆に他者から疎遠になりがちだと思われる。

 孤独者ほど他者を求めるのだが其の孤独性が逆に他者をして敬遠させるという悪循環に陥りやすいと思われる。

 勿論、他の動機で日記を書いている人も大勢いるだろう。

しかし、上記した志向の人も少なからずいると私は思う。

そういう人にとって、このサイトの「お気に入り」とか「拍手」というシステムは必ずしも良いものではない。

その理由が分からないという人は(このサイトの運営者も含めてだが)、私に云わせれば鈍感な呑気な幸せ者と言える。

なにも難解な形而上的理由などではなく、この現在の申し子である各種のIT技術は実は人間の孤独性を更に悪化させている、と私は思う。少なくとも、そういう一面を内在させている。

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 上記した事柄が事実であることは私は自信をもって断言できる。
なぜなら、私自身が上記した志向の人間に他ならないからだ。

2014年11月3日月曜日

或る人への『安楽死』に関するコメント

こんにちは。

私の妹と彼女の夫はガンで亡くなりました。果たして、どの位の医療費がかかったのか知りませんが相当な経済的負担になっただろうと推測します。

これは他人事ではなく、いつ何時、我が身の問題となるのか誰も予想もできない切実な問題の一つですね。

また此の国の医療費負担軽減化の貴方の具体的提案は傾聴に値すると思いつつ拝読しました。これは癌のみならず経済的負担の大きい疾病にも拡張すべきでしょうね。

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国の医療費負担軽減化の対策も含めて、早急に行わなければならないことは、いわば『死に関する哲学』の構築ではないかと私は思っています。

『哲学』と言ってしまうと形而上の空論と思われがちですが、そうではなく、要するに『私たちは決して避けて通れぬ己の死に対する心構え』の構築ですね。

私はこのトピで『夏目漱石or森鴎外:死について』を書きましたが、今や『死』は鴎外・漱石のような巨人たちでの問題で留まっていたモノが、我々庶民レベルの切実な問題として迫ってきていることは誰も身近に感じていることでしょう。

特に問題となるのは精神・心の問題です。

我々人類の肉体というものは、恐らく其の寿命は長くて、せいぜい50年程度に「設計」されているのではないかと私は推測しています。

ということは我々の精神・心も、肉体にあわせて、せいぜい50年程度が寿命だと私は推測します。(私は人間という実体を「肉体」と「精神・心」に分離して考えるのはナンセンスだと思っています。人間は其れ自身一体の分離できぬ実在物だと思っています。)

医学等の発達によって、ともかく肉体は異常に・・・と言ってよいでしょう・・・生存できるようになってしまった。従って精神・心も異常に、付帯して長生きせざるを得なくなってしまった。

其れは恐らく生物種の人類としては必ずしも適切なことではないと私は推測します(但し素人判断です)。実は私は此の人類の異常なまでの長生きは生物種として人類の不幸だと捉えています。これは異論があるところでしょう。

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しかし、とにもかくにも長生きしてしまった人間・人類を良しと正当化しなければ、人類は自滅を選ぶしかありません。(いわゆる自然の摂理が、この悪腫瘍の如く増加した人類を何らかの方法で滅亡・整理するのかも知れませんが。)

それはともかくとして、長生きしてしまった人間・人類を正当化する、なんらかの思想・哲学・社会慣習・一般常識等の形而上及び形而下の根本的な方向転換が今日及び近未来において必須な急務だと私は思います。(過去においては、疾病、戦争等が人類を「適切な数」に結果的に調整していたのだと私は思っています。皮肉と言えば皮肉ですが、其れは自然の摂理と言えなくもないでしょう。)

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漱石が以下のように『硝子戸の中』で書いていることも其の方向転換を先取りしていると私には思えます。

『不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつゝある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて考えている。さうして其の死といふものを生よりも楽なものだとばかり信じてゐる。ある時はそれを人間として達し得る最高至高の状態だと思ふこともある。「死は生よりも尊い」』
 
そして『安楽死』という問題も、そのような方向転換の文脈で捉えたほうがよいと私は思っています。