2016年7月31日日曜日

『科学知識伝達工学』(立花隆のインタビュー)

かなり前のことだが、テレビの100年インタビューという番組で、先日、立花隆がインタビューを受けて、いろいろな話をした。それを私は観たが、大変、面白かった。

主たる話題は科学についてであった。

その話の要点をここで、ごく簡単に概略紹介すると、

 1.20世紀は圧倒的に科学の時代であり、全ての学問が科学化され、事実上、科学が全人類にとって唯一絶対的・普遍的・必要不可欠な存在になった。

 2.その科学は各分野に専門科・細分化され続け、各専門分野間の相互理解は事実上不可能になっている。その傾向は更に激増しつつある。

 3.その結果の最大問題は、科学の専門家達と非専門家達との間の科学知識の圧倒的な乖離である。

 4.つまり科学の非専門家たちは、科学が自身にとって唯一絶対的・必要不可欠な存在であるにも関わらず、その科学に無知である。

 5.このことが今世紀に入って更に深刻な問題の一つとなりつつある。

ごくごく簡略して言えば立花隆の問題提起は上記のようになると私は思うが、これは、おそらく誰も納得できる話だと思う。

科学の非専門家達とは、つまり、私たち一般庶民・国民に相当する。

***
ここで具体例を挙げよう。

3/11に例の原発事故が発生した。原発を、ここで象徴的に科学と言い換えよう。

一部の専門家( それも、ごくごく僅かの専門家 )を除いて、私たち非専門家は、原発(科学)の知識は皆無であろう。つまり無知である。

その無知なる原発(科学)に事故が発生したとき、その騒動がどうなるかは先刻ご承知のとおりである。

もし仮に、私たちに原発(科学)の真の知識が多少なりとも言えども、あったとしたら、あの騒動は、もう少し変わった行動になっていただろう。たぶん、より良い方向に。
****

立花隆は、ここで、ある提案をしている。

その提案とは、科学の専門()と、圧倒的多数を占める非専門()との間に、言わば科学知識伝達工学()の早急な設立を提案していた。

つまり科学の一般素人でも、その科学の知識が、概要レベルであれ、理解できるような方法論・工学・制度の早急な設立の提案であった。

早い話、『子供の科学』の本格的な学問化である。

言ってみれば、(これは立花隆の言葉だったと思うが、) 知識伝達工学の早急な設立とその工学者の養成と制度的な実践(教育)である。

 私は、これは傾聴すべき卓見だと思う。
***
以下余談。

インタビュアーが彼に『今後は、どういうお仕事を計画していますか?』と質問したら、『いやー、私はもう歳だからね。』と言いつつ、それに付け加えたことがフルッていた。いわく『ゲーテは80代まで仕事したからね。』と!!

私は微笑したよ。ゲーテを出してくるとは!! いかにもこの人らしい。

しかし、おそらく今の日本で、政治から科学まで、なんでもござれの知識人は、立花隆以外に誰がいるだろうか?


Windows 8 の話



朝顔も驚く今朝の暑さかな

私は早起きである。朝、4時には起きている。

床につくのは原則として午後7時。

睡眠剤や精神安定剤を服用しての就寝である。

その数たるや我ながらスゴイものであって、諸氏が其れを知れば驚くだろう。

勿論、或る病院の『心のケア科』の医師との相談の上での服用である。

***
数年前は、私は夏は朝5時起床して、近くの運動公園を約40分、ウオーキングしていた。

下の写真は其の公園のポプラの樹である。

私は其のポプラの樹の横道を通り過ぎるとき、その樹に畏敬の念を内心感じたものだった。

***
今や、そのウオーキングは止めた。私の「運動」は、もっぱら階段の上り下りのみである。

我が家は木造二階建ての古家である。築、30年程になるだろうか。

例の3/11では・・・福島のあの原発から約200km離れていた在所であるが・・・我が家も、相当、揺れたが倒壊はしなかった。よく頑張ってくれたと思う。

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しかし、近い将来、必ず到来する大地震に対しては、たぶん、もうダメだろう。

その日は明日かも知れないし、何十年後かも知れない。確率なんてものは、あてにはならない。

いずれにせよ、そのX-dayまで、当方が先に「倒壊」しているかもしれない。

***
『言うまいと 思えど今日の 暑さかな』という俳句があるそうだ。

或るQ/Aサイトで調べたら、作者不詳との回答が掲載されていた。

加賀千代女の『朝顔やつるべ取られてもらひ水』という有名は俳句がある。

ネットで調べたら、朝顔は、秋の季語だそうだ。

***
俳句の素人の私は、秋でも夏でも、どうでもよい。

ただイメージとしては、私は夏の感じがする。

昔、小学生の頃の夏休みの宿題に 『今日は朝顔が##つ咲きました』 という日記を書いたような覚えがある。

2016年7月28日木曜日

誤用しやすい言葉

『成語林』という、故事ことわざ慣用句を集めた辞典がある(旺文社)。

読んでいて、なるほど、と思う言葉が満載されている。

この辞典に、誤用しやすい言葉が記載されている。

賢明なる諸氏は、誤用することはないだろうが、私みたいな者は知っておきたい誤用例ばかりだから、それらを下記してみよう。
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・枯れ木も山の賑わい
誤用例:『久しぶりに同窓会を開きますが、「枯れ木も山の賑わいです」から、先生にも是非ご出席いただきたいと存知まして・・・
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この言葉は本来、自分の側を卑下して使う言葉である。この例では相手を「枯れ木」に見たてて侮辱したことになってよくない。「溺れる者は藁をも掴む」「腐っても鯛」「猿も木から落ちる」なども目上の人を「藁」「腐った鯛」「猿」に例えた言い方になると当人の前では使えない。
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・気がおけない
誤用例:『あの人は「気のおけない」人だから、一緒に仕事するにしても十分注意したほうがいいよ。』
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「気がおけない人」を「油断できない人」の意に解するのは誤り。正しくは「気楽に付き合える人」の意。なお「気が置ける人」は「なんとなく遠慮の気持ちが出る人」の意。
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・私淑(ししゅく)
誤用例:『あの作家には私も長年「私淑」しており、今でも時々お手紙をさしあげご指導をいただいております。』
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「私淑」は、私(ひそ)かにその人を手本として見ならう意。したがって、こうした言い方は誤り。
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・寸暇(すんか)を惜しむ
誤用例:『彼は「寸暇を惜しまず」働き、社の発展に貢献した。」
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「寸暇を惜しまず」というのは誤りで、「寸暇を惜しんで」が正しい。これは「骨身(ほねみ)を惜しまず」との混同であろう。
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・他山の石
誤用例:『先輩の御教訓を『他山の石」として、これから頑張ってゆきたいと思います。』
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『他山の石」は、よその山から出た粗悪な石でも自分の玉をみがくのに役立てることができるというのが原義。したがって、このような言い方では先輩を粗悪な石に例えたことになって失礼になる。
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・手の平(ひら)を返す
誤用例:『大雪の降った翌日は「手の平をかえし」たような青空となった。』
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「手の平を返す」というのは、人間の態度が急変する場合に使うことばである。したがって、このように天候の変化について用いるのは誤り。
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・流れに棹(さお)さす
誤用例:『頑固者の父は時代の「流れに棹さし」、昔ながらの方法を変えようとはしなかった。』
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「流れに棹さす」は、川の流れに逆らって舟の棹を操るのではなく、流れに従って舟を川下へやる場合を言う。そこから、周囲の成り行きに合わせて物事を進行させる意となる。したがって、世間一般の動向に反してという意でこの言葉を使うのは誤り。
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・役不足(やくぶそく)
誤用例:『たいへんな「役不足」で、私にはとてもそんな大任は務まりそうにありません。』
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「役不足」は、その人の力量に対して役目が軽いの意。したがって、このように用いるのは誤り。「力不足」「力量不足」などと言い換えるべきところである。
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・指折(ゆびお)り
誤用例:『あの都市には世界でも「指折り」の犯罪地帯がある。』
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「指折り」は、よい意味で有名な場合に限って用いられる言葉である。したがって、犯罪多発地帯のような事柄について使うのは誤り。
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ドットとコンマの話

以下は、よく有る話。

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以前、私はBASICという時代遅れのプログラム言語を使って、自作のフログラムを作成し、絵作り遊びをしていたことがある。

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かの有名なバートランド・ラッセルが、これまた有名な『ラッセルのパラドックス』を発見し数学界を震撼させたとき、 『いい大人(おとな)が、こんなコトしてていいのか』 とかなんとか言ったそうだ。

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私が其の絵遊びのプログラム作りをしているとき、ラッセルの気持ちが分からなくないと思うときが私にもあった。

もちろん私のただの絵作り遊びに、数学の大革命のキッカケをつくったラッセル先生をもちだすのは噴飯ものだが。

***
私の自作のBASICプログラムには、一応、バグ指摘用のプログラムも組み込んであって、もしバグがあれば、その発生理由と発生場所を教えてくれるようにしてあった。


ある日ある時、其のプログラムを作って走らせたら、ちっとも動作してくれない。

組み込んであるバグ発見用のプグラムでの指摘はなにもなかった。

正常なプログラムのはずである。
しかし、動作しないのである。

***
「おかしいな・おかしいな」 と思いつつ、半日、あれやこれやと調べ続けた。

「いいかげん、やんなっちゃた」 と放り投げようとして、そのプログラムの或るところをフトと見たら、コンマ(,)にすべきところを、ドット(.)にしていたのだ !!

最近、私は眼も悪くなってきて、, と . も、よく識別できなかったのだった。

およそ半日、私は、, と . に振り回されていた。
自作のバグ発見プログラムは、そこまでは面倒を見てくれなかったのだ。

それこそ『いい大人(おとな)が、こんなコトしてていいの』と思わなくもなかった。

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私の場合は、ただのお遊びだから、どうでもよいことだが、これが仕事となるとコトは重大である。

時々、『***会社の計算機システムが動作しなくて大騒動』というニュースを新聞で見たりすることがある。

私はそういうとき、そのシステム設計担当者の蒼い心情に同情せざるを得ないのである。

2016年7月27日水曜日

落語『鼠穴』(三遊亭円生)

私は落語が特に好きでもないし詳しくもない。

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私が大学2年生のとき家庭教師のアルバイトをしたことがある。

今でも覚えていることだが、バイトの初日、初顔合わせということで、そのアルバイト先の家でちょっとした歓迎のご馳走をしてくれた。そこで話が大学のサークル (同好会) のことに及んだ。

そのとき、アルバイト先の奥さんがケーキを私に差し出しながら、こう言った。

『落語研究会って一体何の研究をするんでしょうね ?』

私は言葉に窮した。落語の研究 ?! 

下町育ちの奥さんにとって、『落語『と『研究』とは水と油のように全く疎遠な存在であり、それが結びつくこということ自体が理解できなかったらしい。

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これも随分昔のことになるが、暑い夏の午後だったと思う。

私は裸で寝ながらラジオを聞いていた。

三遊亭円生(六代目)の落語を放送するというので聞いたのだった。

先に書いたように私は落語が特に好きというわけではなかったが、この円生の噺は好きだった。

少し甲高い声で歯切れの良い江戸弁は聞いていて快かったからだ。

(この点、芥川龍之介の短編を私が好むことと通じている)

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『鼠穴』という噺だった。

私は初めて聞く噺だから勿論、映画で言うネタバレは知らなかった。

大変面白い噺で最後のドンデン返しには (少し大げさに言えば) 感銘を受けた。

落語という噺の面白さを痛感させられたものだった。その痛快さは今でも鮮やかに覚えている。

試しにユツベで検索したら出てきた。便利な世の中になったものだ。約40分のものだが、興味ある人は聞いてみたらよい。本物の一端に触れられるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=MEhVVwqr9Xo

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落語といえば先代の林屋三平は面白かった。

例の『よしこさ~ん』。

ある意味でデタラメのおかしさである。バカバカしさのおかしさである。ともかく愉快なのである。

時代の潮流に乗った人ではあるが、それだけではないモノがこの人にはあった。

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先代の林屋正蔵も私は好きだった。

三平とは全く芸風が違ったが、この人のアノの独特の声 。

なんと表現したらよいか知る人ぞ知るだが、この声を、よく先代の林屋木久蔵がマネして笑わしてくれたものだった。

この先代の林屋正蔵 (今の彦六かな ?) の噺も味があってよかった。

2016年7月25日月曜日

e^(πi)=-1 という公式の神秘

数学のなにものかに神秘を感ずるのは大抵、数学的才能の無い人だそうである。

そうならば私は全く数学的才能は完璧に零である。
いまさら、零であろうがなかろうが、どうでもよいのだが。

e^(πi)=-1 という公式 (オイラーの公式) は見れば見るほどスゴイ。美の極みと言っても良い。

この公式は 『博士の愛した数式』 という映画 (原作の同名の本もあるが ) に出てきたから知っている人も多いだろう。

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ここで私以上のド素人に説明を加えておくと、この公式の e, ^, π, i は以下を示す (-1は、いくらなんでも知っているだろう)。

e は自然対数の底といって、知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な定数。

πはご存知『半径に対する円周の比』で、これも、この世の自然現象の超基本的な定数。

^ はベキ乗の記号。

i は虚数単位で、これも知る人ぞ知る、この世の自然現象の超基本的な値。

これで、記号の意味は解ったことにしよう。

***
要するに、e,π,i は、この世の自然現象の要の要の要の・・・・超基本的な定数なのだ。

これらの一個でも、もし存在しなかったら、この世の文明はおろか、この世自体も有り得ないという、凄いシロモノなのだ。

その凄い、この世の 3 つの基本定数が e^(πi)=-1 という単純極まる式で関係づけられている !

すごい、というより、まさに美の極致だ。

***
この公式は、例えば、ダ・ヴィンチの 『モナリザ』 などの『美』 に匹敵するだろう。

『神秘的』 な点においても、両者は共通している。

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私は常々思っているのだが、超天才の創造したモノは、凡人には「げしがたい」 神秘性をもっていて、或る種の 「気味悪さ」 さえ私は感ずる。

ダ・ヴィンチの『モナリザ』は、私は美しい、というより、気味悪い。

e^(πi)=-1 という公式も、私には或る種の 「気味悪さ」 さえ私は感じている。

『一杯のかけそば』

以下の今から30年程前の話である。

***
私がNEC主催のPC-VANに盛んに書き込みをしていた頃、 『1杯のかけそば』 という作文が、どういうわけか大いに話題となった。

後に、これがある作家の小説だと知り、私は少々唖然とした。

確か、この小説なるものがPC-VANに転載され、私はそれを読んだ記憶があるからだ ( 著作権に抵触するのかどうか、その辺は知らない )。

小説の素人の私が読んでも、これは小学生あたりの出来の悪い作文にしかみえなかった。

なぜ、こんな詰まらない話が、かくも話題になったのだろう。
この 『作文』 は社会現状にも発展した。
以下はWikipediaでの記載である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%AF%E3..

映画化もされたそうだ。私は露骨 (と、あえて言おう) な、このテの『美談』は私は好まない。

***
話題は変わるが、昔々の映画だが、『3度泣けます』 と宣伝された親娘悲話の映画が流行した。

『悲しい運命な』 母親役は常に三益愛子で、子供役は・・・確か白鳥ミズエだった。

東映チャンバラ映画に夢中であった私も、流石に、この 『お涙頂戴』 映画には辟易していた、というよりハナからバカにしていた。

そもそも悲劇・悲話というものは、それが露骨に表現されると笑劇、というより莫迦莫迦しくなる。

その典型が 『1杯のかけそば』 であった。
少なくとも私にとっては。

***
カケソバと言えば私には懐かしき思い出がある。

私の両親は映画好きであった。

私がチャンバラ映画に夢中になっていた頃だから、昭和24,5年頃だが、この頃は私の両親と妹と一緒に町の映画館にセッセと通っていたものだ。

それも夜の部に限っていた。

映画が観終わると必ず近くのソバ屋により、一番安いカケソバを4人で食ったものだ。実に旨かった。1杯30円だったと記憶している。

あの頃の我が家の生活水準は、まぁ中の下ぐらいのところだろう。

細いネギを細かく切ったヤクミだけのカケソバだったが、私には大変なご馳走だった。

ラーメン ( あの頃はシナソバと言った) は50円だったと思う。

このシナソバは正月、母の実家で食べるのが習慣だった。

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てな我が懐かしき記憶があったものだから、『一杯のかけそば』 に私は同情してもよかったのだが、なににせん、この作文はあまりに野暮すぎた。

もし、この作文いや小説に感動した諸氏がおられたら、スイマセンです。

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ところで白鳥ミズエ嬢は私と同じ位の年齢だったから、もし御健在なら、今や良きお婆ちゃまであろう。

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今回、この日記を書くにあたって、インターネットで白鳥ミズエ嬢を検索したら、

『生年月日: 1944年9月15日 (71歳)』 と記載されていた。奇しくも私と同じ歳の生まれだった。


『前提が偽ならば帰結は全て真』

論理というものは我々の日常生活においても骨格となるものだろう。

たとえ 『カドが立っ』 たとしても、理屈どおりには、いかないのも此の世の常だが。

しかし、論理学の約束の一つに 『前提が偽であれば、そこから導かれる帰結は全て真である』 というものがある。

***
論理にも演算があって命題AとBがあったとき、A+B, A×B等の論理演算結果も定義されている。

前者の演算はORとも呼ばれ後者はANDとも呼ばれる。
ここらの話は例えばデシダル回路の入門本の最初には必ず出てくる。

***
この論理演算の一つに、A→Bがあって 『AならばB 』と読む。

この演算結果は以下のように定義されている。
  A B A→B
  偽 偽  真
  偽 真  真
  真 偽  偽
  真 真  真

この表をじっと眺めていて奇妙な感じがするのは、Aが偽でBが真及び偽のとき 『AならばB』 は真と定義されていることだろう。

前提Aが偽ならばBの真偽の如何に係わらず『AならばB』は真なんて、なんかオカシイ!!!

この違和感は、この論理演算(→)を 『ならば』 と表現していることからきているのだが、論理学では 『前提が偽ならば帰結は全て真』 なのである!!

***
繰り返すが、我々の世界の基本的な骨格は論理から成立している(勿論、超論理・脱論理等等の曖昧さも有るが)。

しかし 『前提が偽ならば帰結は全て真』 という論理学的真理も我々は心得ておくべきだろう。

何かの議論をするとき、その議論の前提が偽ならば、その議論の結果は、要するに何でもありの空論となることだ。

ここに議論の前提の重要さがあるというわけだ。

***
上記した 『AならばB』 の違和感について上手く説明した本がある。その本は 『現代数学小事典』(講談社ブルーバックス) で、以下のように説明している。

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Aが偽ならばBの真偽に関わらずA→Bが真となるという論理図式は、実は我々の日常会話でもよく使われている。(中略)

“君が天才ならば僕はナポレオンのお袋さ”

この発言者は自分の正しいことを言っていると思っている。

そして自分がナポレオンのお袋でないことも知っている。

よって全体の主張が真であるためには 「君が天才」 という命題が偽でなければならない。

相手の言い分Aを強く否定しようとするとき絶対真にはなり得ないなるべく突飛なBをもってきて “AならばB” と言い返すのはよく見られる発想である
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2016年7月24日日曜日

『他者を食う』ことの是非 (その4)

以下、文章が煩雑になるから、発言者と発言内容のみ記す。
***
Zさん:『ぜんぜん不快に思っていません。 むしろ、そういう話をする場ですから、色々な意見が出るほうが有意義かと思いますです。 予定調和ではつまらないですから・・(笑)

そうですね、現代には現代のよさがあるし、縄文には縄文のよさがあります。

戻る必要など全くないのには、全く同感です。

自分も、縄文から学びこそすれ、縄文人と同じ生活にあこがれているのでは全くありません。

個人的に自分の目指すところは、21世紀型縄文トレーディング生活。

縄文型を身につけることにより、現代社会においてよりいっそう世渡り上手に暮らすことですから・・』

***
この時点で此のコミの話題が少し転じてきて、その後、私は以下のように発言している。ここでは、このコミの常連の女性 (Bさんと呼ぶことにする。)が登場する。

私:『他の命を食べなければ自分自身が生きられない。
であれば、Bさんの仰ること、即ち 『命を頂いた分、他の命のために自分を働かせて食べた分を使いきる』 ことは当然、肥満とは、結果として、無縁になるでしょうね。『使いきる』とは満腹に繋がり、余計な食欲は抑制されるに違いないからです。

ただ、それを強いて利他的に行う必要はないと私は思いますが、どうでしょう。

野生の生物たちは、本能として其れを行っていますね。勿論、彼等は其れを利他的にやっているわけではない。飢えてきたら他の生物を又殺して食うだけのこと。肥満になどになるはずがありません。 

満腹したら、殺した生物の残骸を残すのでしょうが、その残骸は他の生物が食ってしまう。その結果として、殺された生物は綺麗さっぱり『使いき』られるわけです。 縄文人たちも恐らくそうだったのでしょう。』

Cさん:『Zさん 今の私たちは文明という野生生物にはない論理の中で暮らしていて、残虐性は改善されていません。

ですから意識的に自然界では普通に行われている利他を実行する必要があると個人的には思っています。』

***

この時点で別の常連( Cさんと呼ぶ)の発言があった。

Cさん:『宗教や信仰が語られる際に、いつも私が気にしているのは、頭で考えるよりも体で感じる事が考慮されているのか?という点です。』

私:『これは大変、重要な指摘ですね。『頭』だけの空理空論になっていないか。この点は常に留意しなければなりませんね。

実は、例の 『鶏を殺す体験授業』 の私の話も、その点を指摘したつもりなんです。

通常、学校で習うこと、例えば 「命の尊さ・・・勿論、此れは何も人間のみの命に限ったことではなく、生きとし生けるもの全ての命のことです・・・ は、えてして頭だけの理解になりやすいのが現状ではないか、ということを指摘したかった話題なのです。

生徒たちに、頭だけで『命の尊さ』を納得させるのではなく、体で納得させるために、敢て、生きた鶏を自身の手で殺し『命が抹殺されるということは、どういうことか』を体で実践して知らしめる。つまり貴方の言うところの 「頭だけの感得ではなく、体での感得の大切さ」 を、この『鶏を殺す体験授業』で実践する、ということなんです。

「宗教」なり「信仰」の根本は、「苦しさ」「悲しさ」「痛み」といったモノの実体の感得にあるとするならば、その感得は、頭のみの知識で知るのではなく、現実の実践によって知ることが大事ですよね。

ですから、例えば鶏を自身の手で殺し、その時の鶏の「苦しみ」や「痛み」を直接、自身の目で凝視することが肝要となるはずです (授業の実験材料となった鶏には気の毒ですが)。

以上、貴方の御指摘に答えられたかどうか分かりませんが、一応リコメントしておきます。』
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『他者を食う』ことの是非 (その3)

私は、また、以下のように発言した。
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もし、縄文人が鴎外、漱石の死生観を聞いたら、なんと答えるでしょう? 私には大変興味深くかつ痛切な疑問です。
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そしたら、Aさんは、以下のように発言した。
(後で分かったことだが、Aさんは実際に縄文人の生活を知るべく、山で狩猟生活の体験をしていた。)
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その答えは Zさんや我々には、山の生活から見出せるかと・・

例えば、自分なんか思わぬ近距離で熊に立ち上がられた時なんか、resignation なんてこれっぽっちも考えません。

とにかく夢中!夢中でその場を切り抜ける!

生きようとか、死のうとか、家族がどうこうとか・・そんな事全く考えてません。 夢中、ただ夢中!
実は夢中こそ、生の主役じゃないかと。

例えば、物事に打ち込んでいる職人さんなんかは、死期が迫っていても少しでもいい作品を作ろうと、残された時間を夢中で仕事に打ち込む。

動物もそう・・モーメントモーメントが夢中です。
そこには、死の恐怖も苦痛も、痛みすら、入り込む余地がありません。

そして、夢中から覚醒する瞬間、瞬間に・・・
ただただ、生の喜びがあるだけ!

生きるのに夢中で挑んだ縄文人や山の民からすると、

漱石さんや鴎外さん、実はあなたがた、 狩猟採集を他人任せにして、暇を持て余しているだけなんじゃない?

とか、案外醒めたリアクションが待ってるだけかもですね。
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そこで私は以下のように、Aさんにリコメントした。
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たぶん、貴方が仰っていることが、『縄文人』の回答でしょうね。 大変よく理解できます。

ただ、私も含め現代の人々(人類)は、縄文時代には帰られないことも事実ですよね。

貴方の生き方は、やはり例外と言わざるを得ない(気分を害さないで下さいね)

結局、鴎外や漱石の苦悩の根底は其処にあると私は思いますよ。

つまり、私たちは縄文人の知らなかった現代の文明社会に生きざるを得ない。

もし、縄文人に、現代文明を選ぶか、または縄文文明を選ぶかと問うたら (馬鹿げた仮定ですが)、おそらく現代文明を選ぶのではないかと私は思いますよ。

繰り返しますが、私たちは過去へは戻れない。

気分を害する言い方を敢えてしますが、趣味としての縄文文化なり文明を「楽しむ」のは容易なことですし、大変、意義あることではあります。しかし其れは趣味の範囲を出ることは、残念ながら不可能でしょう。

良くも悪くも私たちは此の現代の文明のなかで生きざるを得ない。

そこに鴎外や漱石、ひいては現代を生きる我々の苦悩があると言えないでしょうか。

もし人類の英知が第二の『人間復興』を将来達成させることが出来たならば、あるいは縄文文明に近い未来が待ち受けているかも知れない。しかし残念ながら私には其れは儚い夢に思えます。

以上、失礼なことを書きましたことは自覚しています。

『他者を食う』ことの是非 (その2)

また、私は以下のようにもリコメントした。
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霧吹き状の殺虫剤が発売された頃、野坂昭如が言ってましたよ。

アレは子供の教育上、よろしくない。殺す、ということが、どういうことか子供に知らしめるには不適切だという趣旨の発言でした。

蠅やゴキブリを蠅叩きで、叩っき殺して、「害虫」がハラワタなど出しながらジタバタ苦しみながら死ぬのを目撃することこそ、殺すということが、どういうことか子供は知るんだ・・・と言ってました。

半分、冗談ですが一理あるなと私は聞いていました。
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この私 (Zと呼ぶことにする) のリコメントに対して、 或る人 ( Aさんと呼ぶことにする) Aさんは以下のようにリコメントした。
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縄文と外れるなんてとんでもない!ドンズバでしょう!

狩猟採取の縄文人の常識が、現代人の異端

Zさんのご提案は、現代人と縄文人の精神性の違いを最も端的に表現してらっしゃるかと・・・
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この Aさんのリコメントに対して、私は更に以下のように発言した。
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いっそのこと、縄文時代のように自分で殺さないと食べちゃダメ! とかにすれば、 個人個人、納得のいく殺し方が出来て、美味しさもありがたさも倍増するのに・・ですよね。

鶏なんか、恐らく、毎月日本人の大人の人口以上に殺されてますから、月に一人1羽くらい 「手ゴロシ」 して、 「手ゴロシ免許」 を提示した人だけ、ケンタッキーを食べられるとかにすれば、肉のありがたみも増すのかなぁ・・なんて。

また、免許制にすれば人を殺してみたかった・・なんて犯罪も縄文並みに減るのかなぁ・・と勝手に想像しています。

現在、なぜ今縄文人が見直されているのでしょうか?

要するに、人類の文明化によって、生物としての人類が心身共に脆弱化している
ということですか?
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この私のリコメントに対して、Aさんは以下のようにリコメントした。
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この話題も、さまざまなジャンルの方々に、様々な観点から深くご考察いただければ、縄文人と現代人の死生観の違いにまで踏み込めるかも・・・と。
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そこで私は、以下のようにリコメントした。
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要するに、人類の文明化によって、生物としての人類が心身共に脆弱化している ということですか?
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***
話が死生観に及んできたので、この時点で私は以前此のサイトに書いた鴎外と漱石の死生観についてリコメントした。

『他者を食う』ことの是非 (その1)

1年半程前、mixi に『縄文ゼミ』というコミュニィティがあって、そこで縄文文化について、いろいろなことが議論された。そのゼミには数名の常連が書き込みをしていた。私もその一人だった。

そこで議論されたことの一つは『他者を食う』ことの是非に関することだった。

この議論の「きっかけ」は、或る人の 『動物が肉にされる時にどう殺されているかを一度は見て欲しいですよね。』という発言だった。縄文人は狩猟を行っていたという事実の基づく発言だった。

この発言に対して私は以下のようにリコメントした。

読み易くするために行間に***マークを入れてある。

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>動物が肉にされる時にどう殺されているかを一度は見て欲しいですよね。

この件について。「縄文」とは外れる話題ですが、私たち生物は他の生物の命を奪って生きている存在ですよね。

私たちは要するに殺生しなければ存在しえない。

今日のほとんど全ての人は、『殺された生きもの』の痛みを知らずにして生きている。

これが今日の文明人たちの生き様です。或る意味では致し方のないことです。

学校の教室では、命の尊さを教えている。

しかし実情は、自分たちの食糧となる他の生物たちの殺される苦しみは知らない。

パックに包まれた牛肉なり何なりの物しか知らない。その殺された牛の命に思いをはせることは先ずないでしょう。
(私も含めてですがね)

***

そこで、これは新聞か何かで知ったことですが、或る中学校では、生き物の命を奪うことがどういうことかを生徒たちに体験させる授業があったそうです。

現在も行われているかも知れませんが、その体験授業とは、たしか生きた鶏だったと思いますが、その鶏を実際に自身の手で殺す、という『授業』です。

鳴きながら逃げ回る鶏を捕え、自身の手で締め殺すか切り殺す。そういう体験をさせることによって、命を奪うということは現実にどういうことかを生徒たちに体験させる。その体験をとうして命の尊さを現体験として学ぶ。そういう授業です。

このような授業には賛否両論があるでしょう。
今時の都会の親達は血相を変えて反対するに違いない。

しかし、確実に言えると思うのは、そういう体験をした生徒たちと、したことのない生徒たちとは、彼らの其の後の人生において、『命の尊さ』の重みの実感度が決定的に違うだろう、ということです。

黒板に書かれただけの「命の尊さ」を筆記するだけの生徒たち。

逃げ回る鶏を自らの手で其の命を抹殺する体験をした生徒たち。

どちらが、「命の尊さ・重み」を本当に実感しているか?
それは言うまでもないでしょう。

今日、私たちはスーパーマーケットで売られているパック詰めされた「命」しか知らない。

そして食堂で、その肉を食べ、「あ~ら、おいしいお肉」などとお喋りしあい、其の殺された命への痛みなどに思いをはせることはハナからしない。

そこには、私たちの、無意識の偽善・欺瞞がある。

これは文明化というものの、避けえない偽善・欺瞞の一つだと私は思いますね。

***

昔は、田舎では飼っている鶏を殺して食ったものです。

また縄文人たちも動物を自らの手で殺して自身の命の糧にしていたのでしょう。

命の尊さと重み・・・おそらく現代人よりも縄文人のほうが其れを実体験として痛感していたと私は思いますよ。

私は「生命の尊さ」という言葉を聞くたびに、上に書いた体験授業を思い出します。

2016年7月23日土曜日

天理教のこと (その3)

祖母が亡くなったのは、私が大学を卒業し、或る電気製造会社に勤務していた時だが、はっきり覚えていない。昭和44年頃だったと思う。

***
私は高校を卒業すると、一浪して、大学に入学した。

だから、(その2) に書いたように、私が高校生の頃までは、我が家には、私の祖母、両親、及び妹の五人の家族が同居していた。

私の妹は私より 3歳の差があった。

私の両親の子供は私と妹しか、いなかった。 
この妹は、平成22年の夏、乳がんで亡くなった。

***
正式な天理教徒になる儀式めいたものがあるのかどうか私は知らない。

だから私の両親が天理教徒だったのかどうかは私は知らない。

ただ、祖母は熱烈なる天理教徒だったから、我が家の二階には、ごたいそうな 『神だな』 (正式な名前は私は知らない) があった。

それに向かって、毎朝、祖母と両親が 『おつとめ』 をするのが習慣化されていた。

その 『おつとめ』 なるものは、3人が正座し、或る言葉を唱和し、『手ふり』 と呼ぶそうだが、一種の 『踊り』 めいたコトを行った。

私と妹は、その 『おつとめ』 したことはなかった。するように言われたこともなかった。

しかし、その 『おつとめ』 を毎日のように傍で聞かされているから、その唱和の一部を私は今でも覚えている。それを書いてみよう。

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♪あしきを はろうて たーすけたーまえ てんりおーの みこと・・・
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正確には分からないが、たぶん、私が五歳になったときだと思う。そうだとすると妹は二歳のはずだが、私の両親と私と妹が、天理市に在る天理教本部へ出かけたことがある。

(現在の天理市が、とのように変遷しているのかどうかは私は知らない。私達が天理市に出かけたのは昭和25,6年頃だったと思う。)

天理教の本部へ行くのは、たぶん祖母の勧めに依るものだったと思う。

私や妹の、一種の通過儀礼として、天理市本部へ 『おまいり』 しに出かけたのだろう。

天理教に、そのような儀式があるのかどうか私は知らない。

ともかく、静岡県の旧金谷(かなや)という田舎駅から、天理市まで汽車に乗っての、当時、半日がかりの 『長旅』 だったと記憶している。

***
そのときの天理駅前の光景は私は未だに忘れない。

当時は、敗戦の残景が全国いたるところで、傷跡のように未だ在った頃だった。

天理駅前も其の例外では無かったのだろう。 
駅前の光景は私の幼い眼には、ひっそりとしていた。

確か、「天理」と背中に書いた紺色のハッピを着た若い人がチラホラと駅前の通りを歩いていた・・・と思う。

そして塵一つ見かけない清潔で簡素な其の町なみの光景には、子供心にも其の「すがすがしさ」には私は感動したように記憶している。

ともかく清潔な印象を私に与えたものだった。

確か、私達は、天理教本部の宿舎に一泊した。
その宿舎も、すがすがしかったという記憶がある。

***
天理市から帰るとき、天理教徒の一人の青年が私達を見送ってくれた。

その青年は私に絵本を買ってくれた。
そして私の顔を見て言った。

『大きくなったら又いらっしゃいね』 と。

その絵本も、私は、現在、かすかに覚えている。

私は此の青年のことを、今でも私は時折思い出すことがある。

***
この体験は、幼かった私の貴重な原体験の一つとなっている。

天理教のこと (その2)

私の父方の祖母は、熱烈なる天理教徒だった。
その「いきさつ」は、先の記事の、(その1) に書いた。

***
この祖母について、私が今だに覚えていることがある。

私自身は犬や猫は好きだったが、祖母は特に動物好きというわけではなかった。

ただ人並みに草花には興味があったようで、我が家・・・祖母と、私の両親と、私の妹の五人家族だったが・・・の前にはコスモス等が植えてあった。
恐らく、祖母が植えたのだろう。

***
その頃・・・私が知っている限りにおいて、即ち、昭和20年代の後半頃から昭和30年代の前半頃・・・には、飼い主の不明な風来猫や風来犬が、家の近所にウロついていたものだった。

或るとき、そのような風来猫が一匹、ふらりと我が家に来て、そのまま居ついてしまった。それは、私が猫好きだった故もあるだろう。

我が家に居ついた其の風来猫に、祖母も両親も妹も別に文句は言わず、無関心だった。

***
その猫が我が家に居ついてから、数か月過ぎた頃だったと記憶しているが、その猫が何かの病気にかかったらしく、風呂桶のフタの上で、ぐったりと横になり寝ていた。

そのような状態が数日続いた。

私は心配ではあったが、その頃は動物病院なるものも近所にはなく、私も、また、何の手立てもできなかったし、そのような知恵は私には無かった。

***
或る日、相変わらず風呂桶のフタの上でグッタリと横になり寝ていた猫を私がふと見たら、祖母が其の猫の腹を、何やらブツブツ言いながら、さすっていた。

そのとき私が居た場所と風呂桶との距離は 10m程あったから、祖母は私が其の様子を見ているとは気づかなかったはずだ。

***
後日、知ったことだが、祖母は、天理教で言うところの 『おさすり』 とかいうモノを、その猫に行っていたのだった。

その 『おさすり』 なるものも、天理教において如何なるモノか私は無知だが、一種の『おまじない』めいたものかも知れない。

その効果かどうか分からないのだが、其の猫は、其のときから元気になっていった。

そして、その猫の回復が、祖母の 『おさすり』 に依るものか偶然に依るものか私には分からない。

***
祖母は、その後は、かってそうだったように、其の猫に無関心だった。

祖母の、その猫に対する 『おさすり』 なる行為を知っていたのは、両親も妹も知らなかったはずである。

彼等は相変わらず、その猫に対して、かってそうだったように、嫌がりもせず、また可愛がりもせず、要するに無関心だった。

私は、祖母自身にも、また他の家族にも、祖母の『おさすり』行為を私が見ていたことを、ことさら話したことはない。

ただ、私は、祖母という人の或る一面を、かいまみた思いがした。

***
祖母という人は、普段は、気むずかしい人だった。

どちらかと言えば、愛嬌もなく、私や妹に対しても無愛想な人だった。

私の見る限りにおいて、私の母に対してもそうだった。

私の母と祖母との関係は、どの家庭にもあるに違いない、嫁嫁姑の 『いさかい』 が絶えなかった。

母にとって、祖母は実に嫌な姑だったことは間違いがない。

なにかにつけて、私は、それこそウンザリするほど其れを見せつけられたものだ。

しかし、風来猫に対する祖母の行為が、たとえ其れが天理教徒の義務であるにせよ、他人には決して見せない祖母の或る一面を、私は知った思いがしたものだ。

だから、祖母の普段の 『氣むずかしさ』 に私が反発するとき・・・そういうとき、私は風来猫の祖母の 『おさすり』 を思い出し、自制したのであった。

2016年7月22日金曜日

天理教のこと (その1)

私の父方の祖母は、熱烈なる天理教徒だった。

***
この祖母の夫は下駄作り職人だった。

この祖母夫婦に生まれた初めての子供が、私の先の日記に書いた、おしんさんだった。 

私が想像するに、初めての子だから 「新(しん)」 と名付けたのだろう。しかし事実は私は知らない。

***
先の日記に書いたように、此の、おしんさんは必ずしも幸福な人生とは言えなかった。

察するに、祖母夫婦にとって、おしんさんの死は、かなり辛いものがあったと思われる。

***
おしんさんの死亡届を役場に出したのは、祖母の夫だということは、先の日記に書いた私の父の除籍謄本で私は知った。

この祖母の夫も早死した。おしんさんの死から何年後かは私は知らない。

もしかしたら、おしんさんの、無惨とも言える早死が、祖母の夫の死の一因だったのかも知れない。

余談だが、私の叔父にも、私は同じような 「死にざま」 を見ている。

***
祖母には、おしんさんを含めて、子供が四人いた。

下駄作り職人の祖母夫婦が裕福であるはずがない。

この祖母は、この四人の子供のうち二人を、即ち、私の父と、おしんさんの妹、つまり私の伯母を、当時の師範学校に入学させた。

早死した夫の祖母への遺言が 『子供は月給取りにしてくれ』 だったそうである。

職人の辛さを知っての、祖母への遺言だったのだろう。

***
決して裕福とは言えない、未だ若い独身の祖母の細腕で、祖母は夫の遺言を立派に果たしたと言える。

成長してからの私から見て、祖母の性格は、いわゆる宗教に頼る人には見えない。

それにも関らず、祖母は、最初に書いたように熱烈なる天理教徒だった。

***
祖母の親戚に裕福な人がいた、とは私は聞いたことはない。

若き日の独身の祖母にとって、天理教という、当時の新興宗教は、恐らく、誰かに誘われての入信だったのだろう。

頼る者の無い者にとって、この新興宗教への入信は、私は理解できる。

***
夫の遺言を立派に果たした祖母は、そういう意味で律儀な明治人だったとも言える。

それ故にこそ、入信したからには、祖母が熱烈なる天理教信者になったのも当然と言えるだろう。

「おしんさん」のこと

昔、「おしん」というテレビ・ドラマがあった。

私の父の、一番、上の姉の名前も 「しん」 であった。

但し、私は此の人に逢ったことはない。私が生まれる、遥か、前に亡くなったからである。

その年は明治何年だったかは後記するように、或る機会で知ることになる。

***
以下は、私が子供の頃、父かたの親戚たちが何かの寄り合いで話していたことを、傍で聞くともなく私の耳に入ってきた話である。

***
おしんさんは、確か、二十歳前に、或る職人のところに嫁いだ。 
その職人は、いわゆる遊び人だった。

そして、おしんさんは其の職人から病をうつされた。恐らく梅毒だったのだろう。

おしんさんは其の職人と離別し、実家に戻った。その数年後、実家で亡くなった。

***
ここで話が飛ぶが、私の父は、父の故郷に在る墓を、私が、現在、住んでいる所に改葬した。

その墓には、おしんさんの遺骨もあった。

私は長男であるため、私の両親は、私が現在住んでいる近くに引っ越してきて、その際、上記した墓も改葬したのである。

***
父の死後、私は父の除籍謄本を取り寄せた。(その謄本は、現在、手元に置いてない。)

私は其の父の除籍謄本によって、おしんさんの、結婚による実家からの除籍年月、さらに離婚による実家への再入籍、そして実家での病死年月を知ることになった。

***
実は、私は、父の死後、父の改葬した墓を、或る理由により更に改葬した。

その際、私は、おしんさんの遺骨の入った骨壺と一夜を共にすることになった。

その夜、寝ている私の傍に、おしんさんが現れるのではないかと思った。

もし、現れたら、おしんさんの人生を訊こうと思っていた。
しかし、おしんさんは現われなかった。

***
除籍謄本というものは、事実のみを箇条書きに書いてある。

漢字とカタカナだけのみで書かれた、おしんさんの、実家からの除籍や入籍年月を見たとき、決して幸福だったとは言えそうもない、逢ったことのない此の伯母の人生を私は想うのである。

2016年7月21日木曜日

今年はカッコウーが鳴かない

毎年、今時分になると、カッコー鳥が、私の家の近くにきて、カッコウー、カッコウーと鳴いていたものだが、今年は未だ一度も、その声を聞いたことがない。

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今年は五月頃から異常に暑い日があったりして、私は、ひどいメにあっているのだが、カッコー鳥が我が家の近くに来る様子を見せないのは、そういう気象の異常さにも依っているのだろうか。

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毎年、それとなく聞き慣れたカッコウーの声がしないというのことに、私は一抹の淋しさを私は感じなくもない。

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インターネットで此の鳥を調べると、この鳥は、「閑古鳥」という別名をもっているそうだ。 また、以下のような記載がある。

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古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じていたようであり、松尾芭蕉の句にも「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」というものがある。
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私が、今年、聞き慣れた此の鳥の声を聞かないことに、一抹の淋しさを感じたりするのも、故なきにもあらず、というところか。

音楽指揮者:コバケン(小林研一郎)

私はクラシック音楽は人並みに好きなので、TV・BSプレミアムで放送されている『クラシック倶楽部』やN饗コンサート等は、かたっぱしから録画していた。 しかし最近はしていない。

以下は数年前の話である

***
気が向いたとき、それを再生して聴いている。

音楽に一言持っている人は言わせれば、テレビでクラシック音楽を聴くなど、もってのほかだろうが、私はゼンゼン気にしていない。

しかし、TV機器の音声だけでは、音質は、さすがに貧弱だから、昔むかし買ったアンプとスピーカーを通して聴いている。

そのアンプにしてもスピーカーにしても安物であったが、私はそれで充分である。  車は一応走ればよいし、音楽も一応聴ければよい・・・私は、その類の人である。

TVでの音楽視聴の一つの特徴は、指揮者の姿が観客席の反対側から、つまり演奏者側から (大相撲中継で言えば、向こう正面から) 写され、指揮者の指揮ぶりが見えることである。

ときには指揮者の顔がクローズアップされたりする。

指揮者の中には汗水たらして、その汗を周囲に振りまいている人もいたりする。

近くの演奏者には迷惑だろうと私は同情する。

クラシック音楽を聴く場合、このような音楽以外のモノは邪魔に違いないが、しかし反面、いろいろと面白い場合もある。

以前に放送された或るコンサートの録画をみた。指揮者はコバケン(小林研一郎)であった。

私には久しぶりのコバケンだった。

このコンサートの最後の曲目はチャイコフスキーの交響曲6番『悲愴』であった。

コバケンの指揮時の顔等が時折写しだされた。

以下、大変失礼な言い方になるが、「おかめ」が笑ったような泣いたような、コバケンの顔が大変面白かった。

この『悲愴』の第一楽章の或る箇所では、今にも泣き崩れるのではないかと私は心配したほどであった。

コバケンは、各楽章の演奏の終わるたびに、黙想するかのように胸に手をあて、演奏者 (東京フィルハーモニー交響楽団) に向かって、少し頭を下げ、「ありがとうございます」と言っているのが彼の唇の動きから私は判った。

ここらあたりが、この人の人柄が表れているのだろう。コバケンと親しまれている理由が分かる。

大げさな身振り手振りで指揮棒を振り回すタイプの指揮者は私は興ざめて好まない。

このコバケンの指揮は、そのタイプの指揮ではあるが、私は彼だけは興ざめない。

楽しいのだ。

随分昔の話になるが、彼はコンサートの終わりのアンコールに応じて、何だったか威勢のよい行進曲を披露した。

そのとき彼は体を観客のほうに向けて、例の愛嬌のある顔を崩さんばかりに笑いながら、指揮棒を振っていた。気持ちのよいサービスであった。

そのときののコンサートのアンコールでスコットランド民謡の「アニーローリー」が演奏されたが、とても良かった。

こんなことを書いていると、いかにも私は指揮者に詳しく見えるだろうが、私は決して詳しくはない。

少しばかりの人を知っているだけである。

その中の一人がカラヤンだが、私はカラヤンの指揮の姿が私は好きだった。 

目をつぶって、手を前方に差し出し、曲相にあわせて、その手を静かに動かす。体は動きはほとんどなかった。

指揮者の中には、跳んだり、はねたり、さながら指揮台の上で運動会をしているような人もいる。

リハーサルは充分行っているはずだから、本番での指揮者の仕事は、ほぼ終了しているのだろうから、そのように本番でのパフォーマンスは不要なはず。

また、演奏が終わった直後に、よく聞かれる観客者の「雄叫び」も曲目によっては興ざめなものだ。

私は原則として聴いている曲が終了したら、即、offにする。これもTV視聴の利点である。

歌舞伎『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわ・かがみ)』 (その2)

歌舞伎『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわ・かがみ)』 (その1) の続き
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『ラインの黄金』のラストでローゲ自身が舞台の幕を引き、この『ラインの黄金』が終わるのだが、舞台の幕を引くときのローゲの不思議な微笑が、私は忘れられない。

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『ラインの黄金』の幕開きの神秘的な序奏や、ラストの神々の入城の場での壮大な音楽は、私は特に好きだ。

この『夏祭浪花鑑』の舞台囃子もワーグナーの音楽に勝るとも劣らない繊細さと迫力があった。

『夏祭浪花鑑』では大阪だかのダンジリの囃子(太鼓と鉦)の演奏も行われた。

五代目:中村勘九郎がこの囃子を気に入って自分の舞台で披露するように当地の人に頼んだのだそうだ。

歌舞伎『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわ・かがみ)』 (その1)

(以下の話は、だいぶ昔のことなので記述に誤りがあるかも知れない。)

***
もう30年以上前になるだろうか、『本のプロ』 というSNSがあった。

私は『飛行機雲』というHNを使って書き込みをしていた。当時のログが見つかった。 それをここにupしておこう。

もしかしたら、『本のプロ』 の同人が、このサイトにもいるかも知れない。 もし、そうなら、おひさしぶりです。

***
ここに書く『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわ・かがみ)』 は映画ではなく、平成中村座のニューヨーク公演のテレビ中継放送されたものである。

だいぶ昔のことなので、ネットで調べたら、その公演は平成2004年7月となっていた。

五代目:中村勘九郎主演の此の歌舞伎は、私は何気なく観たのだが、強く印象に残り、大変、面白かったことを覚えている。

***
中村座というのは、江戸時代の最古の歌舞伎小屋の名前だそうで、五代目:中村勘九郎が72000年に其の再現の事業に取り組み、成功させたそうだ。

この歌舞伎のニューヨーク公演は、ニューヨーク・リンカーンセンター・フェスティバル で公演されたのだが、その際も其の中村座が当地で再現され、そこで公演が行われた。

全ての機材を日本から船で運び再現したそうだった。

その再現の様子や、この歌舞伎『夏祭浪花鑑』については、かって、インターネットの中村座のホームページで紹介されていた。

***
この放送では中村座の小屋内の観客たちの様子も映されたりして、芝居を観るという臨場感も伝わってきた。

観客の半数ほどは“外国人”だったようだが、この人たちの表情も写しだされ、この人たちにとっても17世紀の、日本という異国の芝居小屋で再現されるカブキは、さぞかしユニークにうつっただろうと思われる。

私だって、多くの“外国人”同様、歌舞伎については全くの無知であり、この舞台で繰り広げられる妖しくも華美な世界は、日常からかけ離れた異次元の世界だった。

私は、彼らの多くの人たちと同様に此の歌舞伎を感覚的に観た。

**
舞台の極彩色の色彩。 太鼓や笛や拍子木などによる、時には荒々しい音響の迫力。 役者たちの様式化された表情や動作。

「舅殺し」の場での、暗い舞台を照らし出す提灯の灯り。この提灯の灯には本物のローソクの火が使われていた。

***
また江戸時代の芝居小屋では行われていたのだろうか、舞台の役者たちは、そんなに広くはない観客席を縦横に走り回ったりした。 

ともかく面白かった。

この芝居が終わったとき観客は総立ちで拍手が鳴り止まなかった。スタンディング・オベーション っていうやつだ。

***
私にとって歌舞伎を観るということは、ワーグナーの楽劇を観るということと全く変わらない。

というより歌舞伎も楽劇も私は無知であるが故に処女の如き感性で味わうのだ、と言えばキザったらしいが、それしか出来ないのだから仕方がない。

***
以下に書くことも30年以上前になるが、これもBSで放送された 『ニーベルングの指輪』 を私は、忘れられない。

この件については、以前の日記に書いた。

http://smcb.jp/_ps01?post_id=7050458&oid=61352..

演出はパトリース・シェロー、指揮はピエール・ブーレーズだった。

この舞台で「火の半神」ローゲを演じたハインツ・ツェドニクが大変良かった。

2016年7月20日水曜日

『心の灯の会』のこと。(その9)

いままで書いてきた人たちは、私の人生の若き頃の、忘れ得ぬ人々だった。

その忘れ得ぬ人々には、ここには書かなかった人もいる。

とりわけ、若き頃の現在の私の家内にも、当然、忘れ得ぬことが、多々、あった。

『「心の灯の会」のこと。(その6)』 に書いた、以下の件は、実は、家内とのことである。

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しかし、実は、後日、再び、私は「はな」さんを怒らせる、どころか、「はな」さんを泣かせてしまうのである。
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この件については、あまりに私と家内とのプライバシーに関ることなので、やはり書くのは差し控える。

***
また、私の母と同じ年頃の或る女性 ( Fさんと呼ぶことにする) が『心の灯の会』にいた。

この Fさんと私は、かなり親しくなり文通も重ねた。

この Fさんと私は 「のっぴきならぬ事件」 を起こすことになった。その 「のっぴきならぬ事件」 は家内も巻き込んでいった。

さすがに、Fさんの苗字も名前も私は今でも覚えている。

この 「のっぴきならぬ事件」 も、この日記を読む人に無用な誤解を与えるだろうから、書くのは差し控える。

***
人は誰でも、一つの本を書くことができる、とよく言われる。

人は、その人だけしかない「物語」をもっている。

辛い人生であれ、楽しい人生であれ、その人の人生は、その人が其れを顧みるとき、誰にも書けない、その人だけの「物語」を思い出すはずだ。

私が、この日記で書いてきた『心の灯の会』のことは、私の若き日の、私の、私だけしか書けない、「物語」なのである。

『心の灯の会』のこと。(その8

今回も或る女性の話である。

『心の灯の会』には常連が5,6名いたが、定例の会を開くたびに新人がきた。たいていは、一回出席して二度と来ない人が多かった。

或る定例の会のとき、一人の若い女性が現れた。
仮に Dさんと呼ぶ。

『心の灯の会』は定例の会が終わると、都内の喫茶店で出席者が談合するのが常だった。

その喫茶店での話である。上記した Dさんは、たまたま私の横に座った。

この Dさんは、細身の体で、いかにも下町風な氣さくな人で、若いにも関わらず、顔には化粧らしきものは一切していなかった。 また爪にはマニュキュアも指輪もしてなく、ただ歯が実に白かったのが、私の印象に残った。

なにかの話題のとき、この女性はサラリと、こう言った。

『わたしんちは貧乏なのよ』

その言いかたには、なんの気張りや虚勢らしきものはなかった。

私とは氣があったのだろう。どんな話をしたか忘れてしまったが、多いに喋りあった気がする。

しかし次回の会のときは Dさんは現われなかった。

***
『心の灯の会』では、会員を増やすために、定例の会に出席して二度と現れなかった人たちに対して、出席を促す葉書を、常連たちが手分けして出すことがあった。

出す相手は特定の選別はなく、常連たちが勝手に山わけして出していた。

住所、氏名は出席したとき書くことになっていたから、それらは分かっていた。

(しかし、Dさんの名前は今や忘れてしまった)

***
私が出した一人に、上記したDさんがいた。

特に彼女を選んだわけではなく、「山分け」の中に、たまたまDさんがあったのである。

その葉書を見たためだろう、彼女が、或るときの定例の会に主席した。

私は其の定例の会には、たまたま出席しなかった。

***
後日、私の家内・・・常連の一人だったが・・・から聞いたことだが、例の喫茶店での談合のとき、Dさんは談合の合間に、こう言ったそうである。私の名を仮に Zにでもしておくと、

『ところで、 Zさんは、どうしたの?』

今回の話は、ただ、それだけの話である。

***
私が、Dさんという人物に好感をもったのは確かであった。

Dさんが私を、どう思っていたかは私は知らない。

私が Dさんに出席の葉書を出しておきながら、私が出席しないことに立腹したのかも知れない。

それ以来、Dさんは『心の灯の会』に姿を現すことはなかった。

***
ただ、私が現在、『心の灯の会』を思い出すとき、Dさんに対して、或る懐かしみを感ずる。

あれから約半世紀が過ぎた。

『袖触れ合うのも何かの縁』という言葉があるが、 Dさんは、其の後、どんな人生を、歩んだのだろうか。

『心の灯の会』のこと。(その7)

以下の話は私が大学・学部へ通っていたときの話である。

豊島区にあった私の下宿から大学へ行くときは、下宿の近くのバス停から池袋駅行きのバスに乗っていた。

私は大学・学部の 4年間は下宿を変えなかったから、そのバスで 4年間、学校に通っていた。

そのバスのバス停・・・池袋・西口でのバス停、もしくは私の下宿近くのバス停・・・で、時々、偶然に会う若い女性がいた。年頃は私ぐらいだった。

その女性は、ほっそりとした、いかにも育ちの良さそうな、どちらかと言えば顔色は白っぽい、というか薄青っぽいというか、ともかく或る種の翳りがある女性だった。

鴎外の『雁』の「お玉さん」を連想させる人で、いつも髪の毛をupにしていて、か細い、弱ゝそうな首スジを見せていた。

***
この女性は、私の下宿の近くに住んでいるようであった。

私が大学・学部にいた4年間の間に、月に数度、偶然に会った。

私は其の頃、日記をつけていた。そして此の女性に会ったとき、『 Xさん に会った』と書いていた。

X とは数学で、よく使われる未知数のことである。此の女性の名前を知らないから、私が勝手に Xさん と名付けていた。

X さんと、何度か、偶然、会っているうちに私は、この女性に或る種の好意をもつようになった。

或る種とは、若い男性なら誰でも感ずるに違いない異性に対する関心のことだ。

私は、その頃、黒い学生服を着て通学することがあった。

その学生服の「えり」には、早稲田大学の理工学部を表すバッジをつけていたから、彼女は私が早稲田の学生であることは知っていたはずだ。

彼女は、常に、地味な洋服を着ていたから、私は、てっきり、どこかの会社に勤めている、品の良い、お嬢さんだとばかり思っていた。

***
ところが・・・

私が大学・学部の 4年生の頃だったと思う。

なんと、彼女が、早稲田大学の図書館の近くに建っていた教育学部の校舎の前で、誰かと談笑していた。

(現在の教育学部が其処にあるのかどうかは私は知らない。)

『なんだ、早稲田の学生だったのか』と私は気づいた。

***
あれは、私が学部を卒業する直前のことだったと思う。

その日、私は『心の灯の会』のガリ版刷りの会誌をもっていた。

池袋から私の下宿に向かうバスに私が乗ったとき、彼女が私の横に座った。

意識的に彼女がそうしたのか、どうかは分からない。

たまたま、私の横の席が空いていたから座ったのだろう。

この 4年間、彼女と話したことは一度もなかった。

彼女は私の存在は知っていたはずだ。4年間も同じバスに乗っていたのだから。

***
私は思い切って、彼女に話かけた。

『あなた、早稲田の学生でしょう?』

そしたら彼女は『ええ』と、うなずいた。そこで私は彼女に訊いてみた。

何を其のとき私が訊いたのかハッキリ覚えていないが、彼女は、こう言ったことだけは覚えている。

『わたし、「世界残酷物語」のテーマ曲が好き。』と。

その頃、この映画の『モア』という曲が流行っていた。映画の題名に似合わず、美しい曲だった。それが好きと言うのだった。

***
バス停に着くまで私は彼女に積極的に話かけた。

そして、例の『心の灯の会』の会誌の中の私の作った詩を彼女に見せた。

『これ、ボクが作った詩ですよ』

彼女は言われるままに、その詩なるものを黙って見た。

しかし、何も言わなかった。

小説風にかけば、こうなるだろう。

-----------------

私:『これ、ボクが作った詩ですよ』

彼女:『・・・・・・・・・・・・』

-----------------
***
バス停では私が先に降り、彼女が降りてくるのを待った。

彼女は少し意外な顔をしたように私は覚えている。

彼女の住んでいる所は、私の下宿の近くだったが、同じ道を少し歩いた後の、反対側の小道にあるようだった。

その同じ道での途中、私は彼女に一方的に喋ったが、
彼女は、「ええ」とか、なんとか受け答えするだけだった。

その間は30秒足らずだった。

そして、彼女は、私の下宿と反対側の小道にさしかかると、ツカツカと靴音をさせながら小走りに走って行った。

***
彼女の初めての会話は10分程度だったが、結局、私は彼女の名前を訊かなかった。

その日の日記には、『初めて、X さんと話をした』と書いたものだ。

***
それ以来、私は、X さんと会うことは二度となかった。

『心の灯の会』のこと。(その6)

以下の話は私が大学・学部を卒業し、井之頭公園の近くの、「はな」さんの自宅に下宿していた頃の話である。

「はな」さんについては先の記事『井之頭公園の思い出 (その4)』 に書いた。

その頃も私は『心の灯の会』には出席していた。

私が「はな」さん宅に下宿していた部屋は、相変わらず、3畳の部屋だった。

その部屋には大きめの窓があった。その窓は両側に開くようにできていて、鍵をかけることもできた。私は出勤するときは、一応、鍵はかけていた。

***
たしか或る日曜日だったと記憶しているが、私は其の日、外出していた。

『心の灯の会』の会合は其の日はなかった。私の部屋の窓の鍵は、かけずに外出した。

その私の留守のとき、H君が私の下宿先を訪れたのである。

事前に、訪れることを私に知らせておいてくれれば、私は外出せず彼を待っていたのだが、何の連絡もなかった。

日曜日だから、彼は、私が、当然、私の下宿に居ると思っていたらしい。

ところが私の下宿に来てみると、誰もいない。「はな」さんも外出していた。

彼は私の部屋を知っていた。

彼は戸惑ったあげく、私の部屋の窓の鍵が、かかっていないことを幸いにして、窓をあけて私の部屋に土足で侵入した !!

別に、何かを盗むつもりでは当然ない。

そのうち私が帰ってくるだろうと数時間、私の部屋に居たそうである。 しかし、待ちくたびれて、また窓から抜け出したそうであった。

***
この件が運悪く、「はな」さんにバレた。

独身の「はな」さん宅の近くに、「はな」さんの近親者が住んでいた。どうも、そのあたりから、H君の「侵入」がバレたようだった。

当然ながら、あの役所勤め一筋の温和にして生真面目な「はな」さんは怒った。

『泥棒が私の部屋から侵入した』と言うのである。私は事情を説明はした。

しかし、はな」さんは、「はな」さんの近親者と相談した結果、警察沙汰にはしないことにしたそうである。

そして「はな」さんは私を、こんこんと諭した。

『今回の件は許してあげる。二度と、そんなことをしないようにしなさい』と。

私は謝るしかなかった。

***
しかし、実は、後日、再び、私は「はな」さんを怒らせる、どころか、「はな」さんを泣かせてしまうのである。

その件については、かなり私のプライバシーに関ることになるので此の日記に書くかどうか分からない。

いずれにせよ、私は「はな」さん宅から追い出されなかったのは幸いであった。

『心の灯の会』のこと。(その5)

私の通学経路は、下宿→池袋駅行きのバス停→池袋駅→高田馬場駅→大学、だった。

下宿→池袋駅行きのバス停までの距離は徒歩で数分だった。

***
そのバス停の近くに肉屋があった。私は其の肉屋で、牛肉の、一番安いバラ肉を、数日毎に買っていた。常に100gだった。たしか100円程度だったと記憶している。

バス停の近くには八百屋もあったと記憶している。そこでネギ等を買っていた。

それらの肉やネギを使って自炊するのだが、たいていは『すき焼き』もどきを作っていた。

その頃、私は子供の玩具のような小さな炊飯器と、小さなフライパンを各 1個と茶碗数個だけしか、もってなかった。

『すき焼き』もどきを作ったときには、皿はなかったから、フライパンの中のモノを、つまんで食うのであった。さすがに箸はあった。

***
あるとき、赤坂の小料理店で働いていた H君が私の下宿を訪れたことがあった。

彼の下宿は先の日記に書いたとおり立派な洋室だったが、私のボロ部屋を見て、なんと評したかの記憶はない。たぶん苦笑いでもしたかも知れない。

先に書いたように私のボロ部屋には電気炬燵さえなかったから、彼が私のボロ部屋を訪れたのは、たぶん夏頃だったと思う。

何を語りあったかも覚えていないが、彼は私のボロ部屋に一泊することになった。

あの狭い我が 3畳の部屋で二人が、どのようにザコ寝したのかも覚えていない。

ともかく朝になって朝飯を食うことになって、私は例の『すき焼き』もどきを作り、それを彼も食べた。

その味について何も彼は言わなかった。ただ、一つだけ彼が言ったことを今でも覚えている。彼は言った。

『食べて、何も感じない、ということは、つまり料理が上手いということだよ。』

***
私と彼の間柄は「おせじ」を言いあうような関係ではなかった。彼が言ったことは「おせじ」だとは思わなかった。

私は、そのとき、内心、思ったものだ。
『料理のプロが、そう言うんだから、オレは料理が上手いんだ』と。

***
後日のことだが、私の家内・・・彼女も『心の灯の会』の常連の一人だったのだが・・・に、その逸話を話すと彼女は苦笑するだけで何も言わない。

***
さて自炊のことだが、自炊するのは、たいてい夕飯や、学校が休日の時だけだった。

それ以外は大学の学生食堂や、大学に通う道端にある大衆食堂で食事はすませていた。

***
大学の学生食堂で今でも覚えていることがある。

一つは早稲田大学の本部から、文学部へ行く途中に『おふくろ』という学生を対象にした店があった。
(今でもあるのか、どうかは知らない)。

その『おふくろ』で、私は「すき焼き」を食ったことがあった。私の自製の『すき焼き』もどきに比べれば、はるかに本物の『すき焼き』に近かったのは言うまでもない。

もう一つは、私が通っていた理工学部・・・当時、この学部は早稲田大学の本部から離れた、新大久保に近い所にあったのだが・・・の学生食堂では、たいていクジラの焼き肉が出た。

此のクジラの肉が、恐ろしく、スジばっていて、食いちぎるのに大いに苦労したものだった。

後年、私はクジラとは違った意味で付き合うことになる。

それについては既に、先の記事『電気メスのこと(その4)』に書いた。

『心の灯の会』のこと。(その4)

私が『心の灯の会』に入会した時期は、確か、大学三年生の終わり頃だったと思う。

私の大学・学部時代 (昭和38年春~昭和42年春)は、都内・豊島区に在る、木造 2 階だての頗る建たつけの悪いアパートだった。

そのアパートが在る敷地は大変広く、木々が茂っていた。

そのアパートの 2階には、四つ部屋があって、3畳の部屋が二つと、6畳の部屋が二つあった。

私は 2階の、一番、隅にある 3畳の部屋を借りた。
家賃は 3千円/月であった。

6畳の部屋の各部屋には、私より、一歳下の立教大学の学生が居た。彼等とは私は将棋をさしたりして親しくしていた。6畳の部屋には二人、同居していたが彼等とは話をしたことがなかった。

私の3畳の部屋からは、庭の木々がよく見え、そういう意味では環境はよかった。

その木造アパートには、各階に、共同で使用する、汲み取り便所一つと、炊事がちょっと出来る金属台着き水道の蛇口一つがあった。借家している人は、私を含め、全て自炊していたのだった。

そのアパートの貸主は、Mさんと言ったが、アパートを実際に管理しているのは、Mさん宅の年長者のお婆さんだった。

***
私は今でも覚えているが、そのお婆さんの孫娘 (恐らく五、六歳だったろう) が、広いに庭をブラブラ歩きながら、当時、流行っていた『ばらが咲いた』を、よく口ずさんでいた。

この歌をネットで調べてみると、マイク・眞木が初めて歌ったのは昭和41年6月だそうだ。

巷に此の歌が流行りだしたのは、その時期より遅れるだろうから、時期的には私の記憶と、ほぼ一致する。

***
この孫娘さんは現在はどうしているだろう。

私のこの日記は約半世紀ほど前の話だから、この孫娘さんは、健在ならば、今やお婆さんになっているはずである。

***
私より一歳下の立教大学の学生が居たことは先に書いた。

私の 3畳の部屋の隣の 6畳の部屋に彼は住んでいたのだが、めっぽう、将棋が強かった。私は負けてばかりしていた。

彼の名前は失念してしまったが、彼は、小山明子の大ファンだそうで、彼の故郷:群馬県・前橋市の自宅の彼の部屋には小山明子の写真やらポスターやらが、ベタベタ貼ってあってあると言っていた。

私は其れを聞いて、若いのに随分、年増と言ってはなんだが、好みが「老けてるな」と思ったものだが黙っていた。

尤も、その頃の小山明子も若かったには違いないが。

***
私は大学生の或る時期、萩原朔太郎の『郷愁の詩人・与謝蕪村』に凝ったことがある。

その話をすると、彼は、その郷土の詩人を自慢したものだった。

『心の灯の会』のこと。(その3)

この『会』の常連の一人に、新潟からだったか上京してきた法政大学の学生がいた。確か、大学一年生だったと思う。

名前は残念ながら失念してしまったが、仮に A 君と呼ぼう。

A 君は片脚に障害があったが、松葉杖は使っていなかった。ただ、片脚を少し引きずるようにして歩いていた。

私は、その障害について尋ねなかったし、彼も何も語らなかった。

***
彼も、木造 2 階建アパートの 2 階に下宿していた。

2 階へ行くための金属製の階段が、其のアパートの横側にあった。

彼は、自室へ昇るとき、曲がらぬ片脚を引きあがるようにして自力で行っていた。また地下鉄の階段の昇り降りも、階段の手すりを、つかみながら自力で行っていた。

そういうとき、彼の顔には、うっすらと汗が滲み出ていた。

***
私は彼のアパートの部屋を訪れたことがある。

その部屋は 6 畳程度だと思ったが、本棚があって、本がぎっしりと並んでいた。

その部屋で私たちは何を語りあったか覚えていないが、ひとつだけ覚えていることがある。

それは、各著名人の言葉を集めた写真入り文庫本のアンソロジーについてだった。

その本のなかに太宰治の顔写真や彼の言葉が記載されていた。
A 君は、その太宰治の記事が気にいっている様子だった。

彼は上気しながら,熱っぽく太宰治を私に語った。
そのときの彼の顔には一種の輝きがあった。

そのとき彼は私は眼中になかったようだった。私は黙って、彼の、薄い紅い顔を、まぶしく見るしかなかった。

彼が『心の灯の会』で、どのような詩を披露したかは、覚えていない。

ただ、現在、私が A君を思い出すのは、あのときの彼の上気した、紅色の顔である。

彼も、あのとき、彼の青春の、まっただ中にいたことだけは間違いがない。

『心の灯の会』のこと。(その2)



『心の灯の会』のこと。(その1)

『心の灯の会』なる超ミニ・コムュニィテイについては先の私の記事『井之頭公園の思い出 (その3)に書いた。

.***
この『会』では、自作、他作の詩を各自、披露したのだが、当然、私も自作の詩を、いくつか披露した。

今でも、その断片を私は覚えている。それを此処で書いてもよいが、いくら私が厚顔でも此処で恥をさらすわけにはいかない。

我が人生を顧みると、まさに恥の連鎖だった。

その恥を上乗せしても別に今更、一向に構わないのだが、この日記を読む人に無用な不快感を与える必要はない。

***
私が上記の会で、一番、親しくしたのは、赤坂の小料理店の板前をしていた、私より一歳上の H 君だった。

彼は中学を卒業後、熊本県の田舎から上京して来て、その小料理店で働いていた。彼は、その店の近くに下宿していた。

私は彼の其の下宿先を訪ねたことがある。

私は其の頃、豊島区の或る木造アパートの 3 畳のボロ部屋で下宿していた。

或る寒い冬の日、私は彼の下宿を訪れたのだが、彼の部屋は、私のボロ部屋より、はるかに立派で、確か 8 畳位の洋室だった。

その部屋は、なんとガス・ストーブがあり、私が訪れたとき、そのストーブは煌々と彼の部屋を温めていた。
私は先ず其れに驚いた。

私のボロ部屋には電気炬燵さえなく、寒い日は布団でもかぶって寒さを凌いでいたものだ。

現在の私は暑いの寒いのと家内から馬鹿にされるほど、気温の変化に異常に過敏だ。

私がボロ下宿で真冬の寒さを蒲団でも被って凌いだ、ということは今では想像すらできない。やはり私は若かかったからこそ出来たのだろう。

***
H 君というと、私が先ず思い出すのは、彼の洋室での立派なガス・ストーブである。

舛添問題で思うこと

以下のようなことを書くと、恐らく、石の「つぶて」が四方から私めがけて飛んでくるだろう。

***
ノンポリという言葉は、もはや死語になったのかも知れないが、私はノンポリである。政治一般に、正直、無関心な輩である。

例の舛添「問題」も詳細どころか概略さえも知らないし、興味もない。

ただ、私みたいな者にも、舛添「問題」が、嫌でも目に入ってきて、その「問題」の「へんりん」を知らされる。

***
何を此処で私が言いたいかを先に喋ってしまうと、チマチマしたコトに、どうして此の国の人たちは、カリカリと怒るのだろうか、ということである。

『チマチマしたこと』と私は書いた。いや『チマチマした』ことではない、と言う人もいるだろう。

しかし、私は 『詰まらんことに、そうカリカリするなよ』 とシラケるのである。

惑星の大きな断片が地球に落下してくるわけでもあるまいに、と私はシラケるのである。

***

私から見て、舛添の失敗は、始めに言ったことを、誰が何と言おうと、最後まで断固として、はねのけなかったことである。

足を引っ張るヤツは必ず居るものだ。

「出るクギは打たれる」は今生の真理なのだ。

その「打つ」ことにのみ己の存在意義を見出すヤツは必ず居るものだ。

***
『李下(りか)に冠(かんむり)を正さず』とか『瓜田(かでん)に履(くつ)を入れず』という言葉がある。

今生においては、特に、お偉いさん達には必須の名言ではあろう。

ただ、私が思うところの本物の人物とは、これらの言葉に迷うことなく、自らの道を誰が何と言おうが、つき進むような「頑固者」のことだ。

そんな人物が此の国には少ないと思うのは私だけだろうか。

超音波診断装置のこと

私が或る医療機器製造会社に入社したら、医療機器の設計部門に配属させられた。

超音波診断装置といえば、今や、どこの病院にもあり、その検査を受けた人も多いだろう。

検査を受ける人がベッドに横になり、なにやら扇状の画像が映っているモニタがあって、医者がプローブと称するモノを、検査を受ける人の腹など当てて・・・というアレである。

『エコー』とも称したりするようだ。

***
私が、この超音波診断装置の設計部門へ配属されたわけだが、途中で、先の日記に書いた電気メスを担当させられて、超音波診断装置の設計部門から離れ、一人、淋しく・・・でもなかったが・・・シコシコと数年間、電気メス試作に没頭したのだった。

***
この電気メス試作が終わり、報告書をまとめた後、元の古巣にもどったのだが、当時は『電子スキャン』なるものの黎明期だつた。

以下の話は半世紀程前の昔話の余談であるから、現在、この超音波診断装置関連の機器を設計している諸君には一種の「たわごと」だと思ってもらってよい。

***
実は、私の超音波診断装置の設計時代において、電気メスほど面白い話はない。

ただただ、平凡なエンジニアが、平凡な日々を馬齢を重ねるごとく、時を過ぎていっただけである。

***
超音波診断装置の設計で、私が担当したのは、その装置の送受信部だったが、この回路部分において最も重要なことは、ノイズの軽減だった。

装置全体に影響するノイズは、この送受信部で、ほぼ決定されてしまう。

当時は此の回路部はアナログ回路だった。

このアナログ回路におけるノイズ軽減化の努力は、それはそれは語るも涙、そして恐らく、聞くも涙に相違なかった。

伊藤健一氏の著書『アース回路』などの関連書物を、会社の休日、顔をコワバラせて読んだものだった。

全く、電子回路設計屋と言えば外聞はいいだろうが、内実は、惨憺たるものです。

***
もうひとつ、聞くも涙の苦労話を付け加えておくと、超音波の実際の人間の体での伝搬に近づけるために、装置ごと、たしか油状のモノ・・・名前は忘れました・・・に漬け、暗幕のなかで実験したことだった。

体中、その油状のモノでベトベトになりながら悪戦苦闘したのだった。

***
こういった具合で、超音波診断装置の設計時代は、思い出したくないのが本音(苦笑)。

電気メスのこと(その1)

私の、或る電気製造会社の入社後、確か数年後だと記憶しているが、今から半世紀以上昔の話だ。だから以下に書くことは昔話だと思ってもらってもよい。

***
当時の通産省の委託だと記憶しているが、医療機器の安全性に関する研究が、上に書いた電気製造会社に任された。

そこで私が、電気メスによる火傷を防止する研究をすることになった。というより、させられた。電気メスによる火傷は当時、大きな問題だった。

***
その研究にはテーマが二つあった。一つは上に書いたように、火傷を防止する方法の検討。もう一つは、電気メス機器のトランジスタ化だった。

一つ目の防止方法としては、専門的になるから詳細な説明は省略するが (というより私自身、細かいことは忘れてしまっているのだが)、電気メスによって手術をうける人体を、アースと直結するか、あるいはアースと絶縁するか、いずれが良いかという問題だった。

***
そもそも、電気メスによる火傷は、電気メスから出力される電流が、人体に装着された対極板に吸収されずに、対極板以外の人体から漏れてしまうことによって発生する。

対極板が人体に完全に密着していれば火傷は発生しない。そのためには、どのようにすればよいか、が検討課題となった。

***
この日記は、電気メスの解説ではないから、私が此の研究で味わされた、いわば裏話をする。
その一つが人体の抵抗 (通常50オームとされていた) を知ることであった。

私は其の値を調べるために、確か、会社が休日の日に、直流電圧器と直流電流計を我が家 (その頃は家内の実家だったが)、私自身と家内を使って人体実験することだった。

但し、電気メスは高周波電量が使用されるが、我が家での人体実験では直流電流で計ることにした。人体抵抗の概略値でも知りたかったからだ。

人体実験の方法は、片腕に近接に分離された二つの銅板を貼りつけ、直流電圧器出力→銅板→片腕→銅板→直流電流計→直流電圧器出力の経路で人体抵抗を計ったわけだ。

直流電圧器の出力電圧を、安全と思われる程度に徐々にあげていき、その都度の電流を計り、抵抗値を調べた。詳しい値は忘れたが確か、50オーム程度の値が得られたと記憶しているが今や定かではない。

それよりも、なによりも、現在の私の左腕には、その時の人体実験での跡が消えずに今でも残っている。一種の「あざ」のようになっている。家内にも実験させたが、そのような跡はないようだ。

***
今から思えば、無茶なことをしたなと苦笑せざるを得ない。

2016年7月16日土曜日

井之頭公園の思い出 (その4)

先の記事に書いた『心の灯』の会の各友人についてのアレコレは別の機会に書くことにして、これらの友人たちと井之頭公園について書こう。

***
私は井之頭公園の近くに下宿していた。

その下宿は、三鷹だか吉祥寺だかの市役所を定年退職した独身の女の人 (「はな」さんと言う人だった) の木造平屋の自宅の空いた部屋を、下宿として主に大学生に貸していた。

私は学生ではなかったが、似たような年頃だから私にも貸したのだろう。3畳の部屋だった。

因みに、私の大学生の頃も、建てつけの頗る悪い木造アパートの3 畳の部屋に自炊で下宿していた。

「はな」さんの3畳の部屋は、初めて入ったときは、3 畳の畳と、一つの押し入れ以外、文字どおり何もなかった。水道と便所は「はな」さんが使っていたモノを使った。

余談だが、「はな」さんの自宅は、もう一つ空いた部屋があって、それは6 畳の部屋だった。

私が 3 畳の部屋に入った年の春、6 畳の部屋に下宿していた大学生が卒業し就職して、借りていた部屋から出ていったそうだ。

「はな」さんは子供は無く独身を通し、役所勤め生活一筋の人生だったらしい。

生真面目な人であることは、私が初めて挨拶したときから分かっていた。

「はな」さんは、6 畳の部屋に下宿していた大学生を気に入っていたようで、その大学生がいなくなってからは、淋しくて淋しくて堪らないと涙を流さんばかりにウルウルの状態で私に話かけたものだった。

実は、後日、この善良なる「はな」さんに、まさに涙を流して、私は叱られることになるのである。その話は別の機会に書く。

***
ともあれ、私は、「はな」さんの下宿から井之頭公園へ出かけたものだった。

その途中に、木立や草の茂った昼なお暗い細い小川があって、その端道を歩いたものだった。玉川上水だった。

この小川で太宰が自殺したのか思いつつ歩いたものだ。

私は柄にもなく、『心の灯』の会というミニ、ミニ、コミュニィティの「副会長」みたいな存在になっていたから、なにかというと、『心の灯』の会の各友人は、井之頭公園に集まって談合したものだった。

そういうとき、家内は・・・そのときは結婚はしていなかったが・・・必ず、自宅で弁当を作ってきて、『心の灯』の会の各友人たちに、ふるまった。

その弁当には、たいてい、焼き肉が入っていた。

其の友人たちは全て貧乏人たちばかりだったから、私を含め、喜んで食ったものだ。

公園の木陰にゴザを敷いて、そこに円坐して、誰へだてなく談笑するのは実に楽しかった。

会員の一人に、確か佐藤と言う名前のカメラ好きの男性がいて、『笑っちゃう』というのが口癖だった。

彼が或るとき、円坐の我々の談笑の姿を望遠レンズを使って写した。その写真は、我々の青春の姿を素直に写した良い写真だった。

***
後日の話になるが、家内が其の写真を保存しているはずである。

今や、あれから半世紀ほど時が過ぎた。
彼等との交流は今はない。

今生から去った懐かしき友人がいるかも知れない。
それは我が身にも言える。

井之頭公園の思い出 (その3)

私が大学三年生の頃だったと思う。

或るとき、私は新聞の下のほうに小さく書かれた、或る宣伝を何げなく見た。

それは数行で書かれた、『詩を作ってみませんか。(心の灯の会)』という趣旨の、一般市民へのPRだった。

主催者の名前と連絡先と集合場所 (都内の或る喫茶店) が書かれていた。

***
そのころ私は学校生活に或る不満を感じていた。

理工系関連のみの受講への不満、と言ってしまえば恰好はいいが、それも有るにはあったが、男性、女性は問わず、もっと親密な友人関係を求めていた。

学校には、それなりに友人はいた。しかし、なにかモノ足りなかった。

***
そこで、上記した『心の灯の会』なるものに出かけてみた。

そしたら確か五、六名の人がいた。主催者 (Nさんと以下呼ぶ) と、二十代頃の若者たちがいた。その若者たちも新聞の広告で、その会を知ったそうだった。

N さんは、三、四十代の年配の人だった。特定の職業はもっていず、自らの意志で其の会を立ち上げたとのことだった。

毎月一回、定例で其の会を行い、会費は、確か100円ではなかったかと記憶している。

定例の会の開催場所は、都内にある無料の小さな集会所・・・名前は忘れてしまった・・・とのことだった。

その開催場所で、自作、他作の詩を各自、披露するとのことだった。

私は其の会の趣旨に賛同し、毎回、指定された場所へ出かけた。

***
出席者は新人も入れて毎回、変わっていたが常連が五、六名居た。

実は、私の現在の家内も其の一人だった。

また、熊本から上京してきて赤坂の小料理店の板前をしている若者 (以後 H 君と呼ぶ)も、常連の一人だった。彼は将来、小説家になるという夢をもっていた。H 君は私より一歳、上だった。

また他の常連は、新潟からだったか上京してきた法政大学の学生だつた。名前は失念してしまったが、顔は今でも、うっすらと覚えている。彼を仮に、A 君と以後、呼ぶ。

また、確か、札幌から上京して医療関連の学校に通っている、私より一歳、下の女性もいた。たしか、O さんと言った。

A 君は片脚に障害があったが、松葉杖は使っていなかった。ただ、片脚を少し引きずるようにして歩いていた。

私は此の会を去るまで気が付かなく、後日、家内から知らされたのだが、O さんも脚に障害があったそうだ。

此の会の常連の、私の忘れざる常連の若者たちが未だいたが割愛する。

***
ともあれ、上記した若者たちやNさん、及び、私の母程度の歳頃の女性の K さんは、井之頭公園と関連した、私の青春における忘れ難き人々である。

井之頭公園の思い出 (その2)

目出度く、私は先の記事に書いた会社に勤めることになった。

その会社は、吉祥寺の駅から、井之頭公園の中を通って十分足らずの所にあった。

こうかくと、『ああ、あの会社か』と気付く人もあるかも知れない。

しかし、もう約半世紀の前の話だから、井之頭公園も其の会社も、どうなっているのか私は知らない。

ともかく当時は其の会社のサラリーマン達は、定時を過ぎると、ぞろぞろと井之頭公園の中を歩いて帰る人が多かった。

***
以下の話は井之頭公園とは関係はないが、私には忘れ難き思い出がある。と言っても、ごたいそうな話ではない。

この頃のサラリーマンは残業するのが日常茶飯事だった。

その残業をするとき、定時 (午後五時) 後、会社内で、とりあえずの 「腹ごしらえ」 の夕飯として、社内の食堂の、安直なカケソバを食う人が多かった。

或るとき、私は、ひどい歯痛を感じていた。虫歯である。しかし、残業をしなければならなかった。

そこで、歯痛を我慢して例のソバを食い、そのまま会社の近くの歯医者へ駆けこんだ。

そして診てもらった。若い先生だった。

私が口を大きく開けて、その先生が其の口の中を覗くないなや、憮然として言ったものだった。

『おい、口を中を、すすげよ』

***
私は今でも歯医者にいくことがある。

そういうとき、若き日の私の此の無頓着さ加減を、或る懐かしみをもって、人知れず微笑するのである。

井之頭公園の思い出 (その1)

私のように古稀を過ぎると、此のブログで書けることは昔話だけである。
***
私のPFにも書いたが、私が最初に入社した電気機器製造会社は井之頭公園の近くあった。実は、入社試験のとき、その会社へ行くには、バスで、吉祥寺の井之頭公園の中の一部を通らなければならなかった。今から半世紀程の前の話だから、現在は、どうなっているかは知らない。
***
その公園の中をバスで通過するとき、その閑散とした雑木林・・・当時はあったのだ・・・を見て、私は多いに気に入った。そこで、私は其の会社に入社することを決めた。
私は何事においても、このようにイイカゲンなのだ。
その入社試験の一部を今でも覚えている。
それは回路理論の、Δ(デルタ)-Y 変換公式を求めるものだった。
***
その入社試験の合格の可否は、確か、数時間後に、会社内で発表されることになっていた。その数時間を漫然と過ごすのは退屈だから、私は映画を見ることにした。
今や、はっきり覚えていないのだが、たしか、吉祥寺の町の中にある映画館で或る映画をみて過ごしたのだった。
その映画は・・・これまたハッキリ覚えていないのだが、たしか、例の『007シリーズ』の何かだったと思う。
***
その映画を見て暇をつぶして会社にもどったのだが、幸いにも私は合格していた。
試験内容には、その会社を選んだ理由を其の会社のお偉いさんたちの前で喋る面接もあった。
そのとき、まさか井之頭公園が気に入ったとは言えるはずもなかった。
そこで、適当に・・・なんと都合の良い日本語だろう・・・『この###会社の$$$』が気に入りまして』 と私は答えたものだった。
ちなみに、入社試験時の昼飯は其の会社が作ったカレーライスだつた。

例の映画を見たのは、カレーライスを食った前だったか後だったか、今や覚えていない。

2016年7月15日金曜日

超音波診断装置のこと

私が或る医療機器製造会社に入社したら、医療機器の設計部門に配属させられた。

超音波診断装置といえば、今や、どこの病院にもあり、その検査を受けた人も多いだろう。

検査を受ける人がベッドに横になり、なにやら扇状の画像が映っているモニタがあって、医者がプローブと称するモノを、検査を受ける人の腹など当てて・・・というアレである。

『エコー』とも称したりするようだ。

***
私が、この超音波診断装置の設計部門へ配属されたわけだが、途中で、先の日記に書いた電気メスを担当させられて、超音波診断装置の設計部門から離れ、一人、淋しく・・・でもなかったが・・・シコシコと数年間、電気メス試作に没頭したのだった。

***
この電気メス試作が終わり、報告書をまとめた後、元の古巣にもどったのだが、当時は『電子スキャン』なるものの黎明期だつた。

以下の話は半世紀程前の昔話の余談であるから、現在、この超音波診断装置関連の機器を設計している諸君には一種の「たわごと」だと思ってもらってよい。
***
実は、私の超音波診断装置の設計時代において、電気メスほど面白い話はない。

ただただ、平凡なエンジニアが、平凡な日々を馬齢を重ねるごとく、時を過ぎていっただけである。

このあたりの事情は、私の記事『いち電子回路設計屋の苦き思い出』に書いた。

https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=2732638270487787500;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=0;src=postname

***
超音波診断装置の設計で、私が担当したのは、その装置の送受信部だったが、この回路部分において最も重要なことは、ノイズの軽減だった。

装置全体に影響するノイズは、この送受信部で、ほぼ決定されてしまう。

当時は此の回路部はアナログ回路だった。

このアナログ回路におけるノイズ軽減化の努力は、それはそれは語るも涙、そして恐らく、聞くも涙に相違なかった。

伊藤健一氏の著書『アース回路』などの関連書物を、会社の休日、顔をコワバラせて読んだものだった。

全く、電子回路設計屋と言えば外聞はいいだろうが、内実は、惨憺たるものです。

***
もうひとつ、聞くも涙の苦労話を付け加えておくと、超音波の実際の人間の体での伝搬に近づけるために、装置ごと、たしか油状のモノ・・・名前は忘れました・・・に漬け、暗幕のなかで実験したことだ
体中、その油状のモノでベトベトになりながら悪戦苦闘したのだった。

***

こういった具合で、超音波診断装置の設計時代は、思い出したくないのが本音(苦笑)

いち電子回路設計屋の苦き思い出

小学生の頃、私は江戸川乱歩の探偵小説が好きだった。明智小五郎が、例えば紫式部を読んでいるとはとても思えない。数学か物理の本を読んでいるに違いない。という理由で、私は当然のごとく自分は理系に進むと決心していた。

あの頃、電子工学というものに何の根拠もなく私は憧れていた。電子、いいじゃぁないか! 神秘的だ!。 明智小五郎も好きに違いない!。 

という極めて幼稚な理由で( 幼稚!! いいじゃぁありせんか幼稚で・・・)、幼児が綿菓子を求めるが如く、私は電子工学者になるべく猪突猛進した。

あの頃( 中学生の頃か )、何の理由もなく法学部だの経済学部などは軽蔑しきっていた。文学部は・・・私は探偵小説が好きだったから、まぁ「許してやろう」と思っていた。(苦笑)
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というわけで、結局、私はある電気会社の電子回路設計者に目出度くも、あいなった。ところが・・・。
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たぶん多くの人は、電気会社の電子回路設計部という世界の実態を知らない人が多いだろう。

以下は私の、あくまでも私の個人的な「実態」の一部を披露してみよう。尤も、私が退職したのは10年以上前だから、その「実態」は今や全く変容しているに違いない。

ともあれ、以下は私が在職していた頃の話である。
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その実態は、『春はあけぼの・・・』とは全くかけ離れた異質の世界であり、極端に言えば地獄の如く冷徹な世界であった。あまっちょろい世界では、ゆめゆめ、なかった。
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言うまでもなく、電子回路設計というのは、いわば自然現象を「設計」する。

その自然現象は人情などさらさら通用しない世界だ。あたりまえのことだ。

自分が設計した回路が試作装置に組み込まれ、いざ電源スイッチを入れて煙が出たとき・・・試作機というものは先ず煙が出るものなんですよ、ーーー即ちトラブルが露呈するのだが、そこから回路設計屋の悪夢が続く。
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電子回路は冷徹に自然法則に従う。煙が出ようが容赦はしない。

設計者が青ざめてトラブルを解決すべく徹夜しようが、『駄目なものは駄目』と突き放される。『ああ、エンジニアになるんじゃぁなかった』と何度ため息をついたことか。

しかしエンジニア冥利につきる時もないではなかった。それは回路設計計算をキチンとし、その回路がキチンと動作した瞬間だ。

「やった!!」。この瞬間ね。至福な時は。

しかし大抵は青い顔して、測定機器に囲まれ、孤独に、自身が設計した回路盤と格闘している時のほうが圧倒的に多かった。
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設計時に叩き込まれるのは、Q・C・Dの重要性。Qは品質。Cはコスト。Dは納期。

Q,Cはともかくとして、現実生活者として一番苦しめられるのはD。

納期近くなると、全ての設計者は残業が続く。Dの数日前は、ほぼ徹夜が続く。若くなければエンジニアなど、やってられない。ともかく、いろいろな意味でキレイゴトが通じない世界だった。

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私は10層基盤を設計したことがある。基盤というのは、たとえばPCを空けると、青色の板があるでしょう。あれのこと。

現在はどうか知らないが、当時は、その基盤の両面にプリント配線をしていた。配線と言っても部品同士を3次元的に配線するのではない。部品が乗った板(盤)の面そのものに配線するのだ、と言っても理解できないかも知れない。

10層基盤の配線というのは、あらっぽい感じで言うと、部品を10次元で配線すると思えばいい。この10層基盤の設計にはマイった。
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などなど。みなさんの周りにある電気機械には、上記のごとき、エンジニア達の汗と涙がにじんでいるのです。

そして、もし貴方・貴女のお子さんがエンジニアで、青い顔して帰宅されたら、どうか、そのお子さんの『自然現象との戦い』に思いをはせてやってください。