先日、NHK・BSで『臨死体験』についてのドキュメンタリーが放送された。
この件に関して以下のブログ、まぁ、面白いと言えば面白いから、無断でリンクしてみよう。
http://www.poc39.com/archives/2930
さて、立花隆がオッチョコチョイかどうか私は知らないが、このブログで、いきなり、こう書かれている。引用しよう。
----------------------------------------------
“
『私』という存在は死んだらどうなるのか、死ぬとき『私』は何を見るのだろうか――。
”
この問いの立て方からして、おっちょこちょいの相変わらずぶりがわかります。
その相変わらずぶりを説明する前に、先に上の問いへの答えを書いておきます。
立花さんが20年余り足踏みしているあいだに、私は既に答えを出してしまいました。
次のとおりです
。
『私』という存在は死んだらどうなるのか?
答え:『私』という存在は死にません。
(以下、略)
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このブログの書き手は、しょぱなから『「私」という存在は死にません。』と断言してしまっている。
この『・・・・』の命題が真であることの保障がなければ、このブログでの以下の文章は私には説得力が全くない。
このブログの筆者には当然の命題であるのか、あるいは其の真であることを、いちいち書くのは面倒なのか、いずれかであろうが、いずれにせよ、最も肝心なコトが抜け落ちているという意味で、私には此の筆者もオッチョコチョイと言わざるを得ない。
2015年3月31日火曜日
2015年3月26日木曜日
『海ゆかば』というレクイエム
最近、先の敗戦に関する本を続けて読んだせいか、あの時代を私なりに思うことしきりである。
そして下記の歌には正直、私は或る感銘をうける。
その感銘は、此の歌のもつ荘厳さ・厳粛さが、混声合唱での女性達の声で毅然とした雄雄しさをもって歌いあげられているからである。
( 但し、YouTubeでuploadされている此の歌の中で、私が感銘を受けるのは下記の混声合唱だけである。その他の歌には少しも感銘は受けない。)
https://www.youtube.com/watch?v=jyYSRPuKJnU
***
この歌を厭う人も多いと思う。それも私は理解できるつもりではある。
今や、あの敗戦後から70年過ぎたのだが、先の戦争傷跡の癒えぬ人も未だ多いだろうし、心中においてトラウマを未だ負っている人も多いだろう、と私は思う。
しかし、時代という時の流れは、どうしようもなく流れていく。あの時代が日本史において特殊な時代だったにせよ、いずれは人々は忘れていくに違いない。
これは良い悪いの問題では必ずしもなく、人間の歴史とは、そういうものだという、ある運命的なモノとして私は捉えたいと思う。
『もう戦争は嫌だ』という真摯な声も私は大切だとは思う。
と同時に、あの時代に生きた全ての人々にとって、私は此の歌は、レクイエムなのだ、とも思いたい。ならばこそ、この混声合唱での女性たちの声が私には厳粛に且つ哀切をもって私の胸をうつのだ。
そして下記の歌には正直、私は或る感銘をうける。
その感銘は、此の歌のもつ荘厳さ・厳粛さが、混声合唱での女性達の声で毅然とした雄雄しさをもって歌いあげられているからである。
( 但し、YouTubeでuploadされている此の歌の中で、私が感銘を受けるのは下記の混声合唱だけである。その他の歌には少しも感銘は受けない。)
https://www.youtube.com/watch?v=jyYSRPuKJnU
***
この歌を厭う人も多いと思う。それも私は理解できるつもりではある。
今や、あの敗戦後から70年過ぎたのだが、先の戦争傷跡の癒えぬ人も未だ多いだろうし、心中においてトラウマを未だ負っている人も多いだろう、と私は思う。
しかし、時代という時の流れは、どうしようもなく流れていく。あの時代が日本史において特殊な時代だったにせよ、いずれは人々は忘れていくに違いない。
これは良い悪いの問題では必ずしもなく、人間の歴史とは、そういうものだという、ある運命的なモノとして私は捉えたいと思う。
『もう戦争は嫌だ』という真摯な声も私は大切だとは思う。
と同時に、あの時代に生きた全ての人々にとって、私は此の歌は、レクイエムなのだ、とも思いたい。ならばこそ、この混声合唱での女性たちの声が私には厳粛に且つ哀切をもって私の胸をうつのだ。
2015年3月23日月曜日
原節子と高峰秀子
私は佐藤忠男の映画評論が好きである。
この人の著作に『映画俳優』(晶文社)という本があって、ここに書かれている原節子と高峰秀子についての人物評論が、とても面白い。
彼女たちの映画を観ているよりも、佐藤忠男の軽快な文章によって、あぶりだされてくる彼女たちの生きざまを読んでいるほうが面白い。特に、高峰秀子に関する佐藤忠男の論評は秀逸である。
***
原節子と高峰秀子と言えば、ある年代以上の人には知らない人はいない稀有の大女優だが、この本によると、彼女たちには或る共通点がある。それは、彼女たちは好きで女優になったのでなく、たまたま女優になってしまったという点である。
其のいきさつは此の本で活写されているから興味ある人は読んでみるといい。
彼女たちにとって、映画俳優という職業は、どうも居心地が悪かったらしい。
世間では原節子と高峰秀子と言えば、傍にも近付けぬ大御所に見えるのだが、実は当人達は自身の在り方がしっくりしなかったらしい。
***
彼女たちが活躍した時代は、まさに映画の最盛期であり、そこで数々の傑作群を彼女たちは共に残してきたのだが、そんな業績には何の未練のないかの如く、二人とも映画界を、さっさと去ってしまった。
よそ目には、その引き際の良さに敬服したくなるのだが、彼女たちにとってみれば、かってから憧れていた己自身の居場所に、やっと行きついた、というのが実情らしい。
***
その彼女たちの生きざまはお見事というほかない。その見事さは、彼女たちが出演した映画の傑作群に裏打ちされていればこそだが、私を含めて並みの人間には、とうていできない人生の『至芸』と言えるだろう。
特に高峰秀子には『わたしの渡世日記』という有名な随筆があって、この人はタダモノではないことが分かる。私は此の随筆を昔読んだことがあるが再読しようと思っている。
***
原節子の佐藤忠男の分析にも私は敬服するが、この分析を一読して、原節子の映画をみたら、おそらく此の女優さんが全く別人に見えるだろうと私は思う。
別人という意味は『この女優さんが如何に稀有な役者さんであったか』という意味である。
この人の著作に『映画俳優』(晶文社)という本があって、ここに書かれている原節子と高峰秀子についての人物評論が、とても面白い。
彼女たちの映画を観ているよりも、佐藤忠男の軽快な文章によって、あぶりだされてくる彼女たちの生きざまを読んでいるほうが面白い。特に、高峰秀子に関する佐藤忠男の論評は秀逸である。
***
原節子と高峰秀子と言えば、ある年代以上の人には知らない人はいない稀有の大女優だが、この本によると、彼女たちには或る共通点がある。それは、彼女たちは好きで女優になったのでなく、たまたま女優になってしまったという点である。
其のいきさつは此の本で活写されているから興味ある人は読んでみるといい。
彼女たちにとって、映画俳優という職業は、どうも居心地が悪かったらしい。
世間では原節子と高峰秀子と言えば、傍にも近付けぬ大御所に見えるのだが、実は当人達は自身の在り方がしっくりしなかったらしい。
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彼女たちが活躍した時代は、まさに映画の最盛期であり、そこで数々の傑作群を彼女たちは共に残してきたのだが、そんな業績には何の未練のないかの如く、二人とも映画界を、さっさと去ってしまった。
よそ目には、その引き際の良さに敬服したくなるのだが、彼女たちにとってみれば、かってから憧れていた己自身の居場所に、やっと行きついた、というのが実情らしい。
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その彼女たちの生きざまはお見事というほかない。その見事さは、彼女たちが出演した映画の傑作群に裏打ちされていればこそだが、私を含めて並みの人間には、とうていできない人生の『至芸』と言えるだろう。
特に高峰秀子には『わたしの渡世日記』という有名な随筆があって、この人はタダモノではないことが分かる。私は此の随筆を昔読んだことがあるが再読しようと思っている。
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原節子の佐藤忠男の分析にも私は敬服するが、この分析を一読して、原節子の映画をみたら、おそらく此の女優さんが全く別人に見えるだろうと私は思う。
別人という意味は『この女優さんが如何に稀有な役者さんであったか』という意味である。
2015年3月21日土曜日
Windowsの余計なお世話
私はPC自体は東芝・パソヒア時代から使っているが、しかし現在に至るまで、PC自体の知識は一向に身につかない。
Windowsの使い方も在職中に仕方なしに職場の『女の子』に手ほどきを受けたのだった。Word,Excelの実技は、職場の「おじさん達」より遥かに彼女たちは熟知していた。これらのソフトは職場の仕事には必須なものだが、先ずWindows自体を知らなければ話にならなかったのが、我が在職中の後半時代の実情であった。もう30年以上も前の話だが。
その際、職場の『女の子たち』は単なる「お茶出し」を脱していて、私たち「おじさん達」のPCの先生だったのである。おそらく、このサイトで果敢に書き込みしている、女性諸君の多くは、かっては、そのような『先生』であったに違いない。少なくともPCの諸々のソフトウエアの使い方に関する限り、男女平等どころか『女尊男卑』であるのが当時の実情であった。果たして現今もそうであろうか?
PCが職場において、女性の地位向上を果たしたのは歴史的事実だろう。
***
私の現在のPCのOSは、Windows 8 である。VAIOを使っているが、此のWin
8 が実におせっかいなMSGを使用中に勝手に表示するのだ。即ち、Win 8.1への勧誘MSGが、突然PC画面領域の広い範囲に無遠慮にシャシャリ出るのである。Win
8 から Win 8.1への移行は無料だが、私はWin 8.1では動作が保障しかねるソフトを使用しており、Win 8 で必要充分なのだ。
ところが、当方から見れば、マイクロソフトは強引にWin 8.1にさせようとしているように見える。というのは、知らないうちに、Win
8.1 がインストールされていて、『再起動』の催促MSGがシツコク表示されるのだ。そこで、うっかり再起動してしまうと、Win 自体が立ち上がらなくなる事態が発生する。他のメーカーは知らないが、VAIOはWin
8.1への移行には或る準備が必要なのだ。それを無視して再起動させてしまったらWindows自体が起動しなくなる。
ってな事態に私は否応なく、させられた。そこで、すったもんだした挙句に、私設のPCサポートの人に自宅に来てもらい此の不測な事態を治めたのだった。まかり間違えばハードディスクの物理的破損も招きかねなかった。この事態の要因は、Winsows
Update の安易な実施にあったのだが、昨年だったか、Windows Updata の更新ファイル自体の不良に依るトラブルが発生した。その際は私は比較的軽傷で済んだのだが、どうもWindows
は個人的に不信がぬぐえない。
ということで、今後はWindows Update は行わないつもりでいる。勿論、セキュリティの問題はあるのだが其れは専用ソフトに任せる。セキュリィティ上、不十分ではあろうが、Win
に振り回されるのは、もう私は懲りた。
2015年3月15日日曜日
キューバ危機で核攻撃命令が出た!!
1962年のキューバ危機をリアルタイムで体験している人は今や少なくなっているだろう。私は其の時、大学受験の浪人をしていたので、よく覚えている。
『蛍雪時代』の投稿欄に、「こんな時に受験勉強していたって、しようがない」という発言があったことも鮮明に覚えている。全く其のとおりだと思ったからだ。
***
今朝の当地の新聞によると以下の趣旨の記事が掲載されていた。
『1962年10月28日の未明、米軍の沖縄部隊にソ連等への核攻撃命令が出された。しかし当該基地の現場判断で発射が回避された。』
もし此れが事実だとし、実際に核ミサイルが発射されていたならば、現在の日本のみならず地球は、どうなっているだろうか。
この危機が奇跡的に回避された後、『核の冬』という言葉が流行ったものだ。
***
10年程前だったか、NHKスペシャルで『キューバ危機・10月の悪夢』というドキュメンタリーが放送された。私はこの番組を録画しており、時折、再見している。
このドキュメンタリーによると、この危機は全くの偶然の積み重ねによって奇跡的に回避されたとされており、いわゆるケネディ神話はもろくも崩れていることを示している。
***
上記した新聞の記事に似たようなカタストロフィー回避の実態は少なからず有るに違いない。ただ我々に知らされていないだけかも知れない。
もろもろのカタストロフィーの奇跡的回避の事実は歴史の裏話として多く隠れているとみたほうが真実だろうと私には思える。恐らく現在及び将来もそうだろう。
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