2016年8月30日火曜日

薩摩守 (さつまのかみ) のこと

今や、煙管 (きせる) と言っても分かる人は少なくなったと思われる。

芥川龍之介に 『煙管』 という面白い短篇がある。
今回は、その話ではない。

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現在のJRを国鉄と言った頃の話だ。

その頃、鉄道に、薩摩守 (さつまのかみ) という、言わば隠語があった。
これも、今や、ご存知の方は少なくなっただろう。

薩摩守(さつまのかみ)とは・・・
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少し落語めくが、「ただのり」 つまり無賃金で汽車に乗ることである。

ご存知、平家物語に、有名な 『忠度(ただのり)都落』 の哀話がある。
高校あたりの古文に、よく掲載されているアレだ。

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薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん・・・

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さざ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

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よい歌だと私は思う。

猫と一緒に居ること

私は、現在、自宅から出ることは、めったにない。一週間に二回、約100m程離れたゴミ捨て場を往復することと、毎月一回、約10Km離れた所にある病院を車で往復すること。原則として、それだけである。

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その他の時間は、自宅の二階で猫一匹 (3代目の、トッチャン) と文字通り、蟄居している。何か用事があれば、自宅の一階に下りていくことがあるが、それ以外は、二階で、この猫と同居している。

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以前の記事で書いたことがあるが、我が家には二匹の猫がいる。しかし互いに仲が悪い。その二匹の猫のうちの一匹は、いつも一階の部屋か我が家の外に居る。

二階の猫は、家の作りの故もあるが、二階の12畳の、事実上の私の部屋から出ることはない。

いつも私と一緒にいる。私が此の世をオサラバするまで、この猫は、おそらく、二階の12畳から出ることはないだろう。

私の傍で、いつも狸寝入りしている此の猫の顔を見ていると、ちょっと哀れに思える。

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しかし、もし、此の猫が居なかったら、と私は思うことがある。共にダメ人間と、ダメ猫ではあるが、私は、さぞかし淋しく思うだろう、と思うのだ。

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私のように外部との交流もなく、蓑虫 (みのむし) よろしく、言わば、刑務所の 「独房」 に居る人間にとって、なんであれ 「いきもの」 が皆無である、ということは、耐えられのではないか、と私は思う。一本の草木でもよい。「いきもの」 に必要なものは 「いきもの」 ではないか。

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随分、昔のことであるが、新聞か、ラジオか忘れたが、或る些事を報じていた。

それは一人住まいの老女が長い間、飼っていた一匹の猫が、或る日より水しか飲まなくなった。

その猫も老いていた。そして或る日、その猫が居ない。その老女が探してみると、その猫の水飲みようの皿近くで死んでいた。

ただ、それだけの、チッポケナな報道だった。

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その 「些事」 を私は、何気なく聞いたか見たかしたのだが、さぞかし、その老女は淋しいだろうと、なぜか私は痛切に感じたことを今でも私は覚えている。

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そのテの報道は些事として毎日のように、あたかもゴミ記事のように、報じられているだろう。しかしーーーー
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しかし、ダメ人間であろうが、ダメ猫であろうが、今生の、誰も気づきもしない場所で共に過ごした時間を失うということは、残された 「いきもの」 にとって、他人の知らぬ簡単に癒されぬ痛みがあるに違いない、と私は思う。

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「いきもの」 同志というものは、そういうモノだろう。

私は、私の傍で、いつも狸寝入りしているトッチャンの顔を見ていて、そう思うのである。

2016年8月29日月曜日

明(あ)くる空には行くべし、暮るる空には行くべからず

『成語林』という、故事ことわざ慣用句を集めた辞典がある(旺文社)。読んでいて、なるほど、と思う言葉が満載されている。ちょっと覚えておきたい言葉がもある。掲題の言葉も、その一つ。
その意味は下記のとおり。
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夜が明けようとしているときなら、暗くてもやがて明るくなるから安心して出発できる。逆に、これから日が暮れるというときには出発するのは危険だからやめたほうがよいということ。
(参考)いまはよくなくても先の見通しが明るいことがはっきりしていれば、多少無理しても断行せよ、逆に落ち目のときは無理はするなという教えと解釈することもできる。
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しかしながら、『先の見通しが明るいことがはっきり』していないのが、今生ではないか? 一寸先は闇なのである。
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今回の台風の経路だって、そうだ。確率というものは、その有用性は私は認めているが、結局のところ、過ぎてしまわなければ、その「真実」は分からない。
人生とは所詮、そんなものではないか。
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量子力学に『不確定性原理』なるモノがあるが、我々の人生だって、畢竟、不確定なのである。
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我々の人生は、いろいろな意味で、「先が暗いか明るいか」は、過ぎてしまわなければ分からないのである。もし、分かっていれば、これほど楽(らく)なことはない。逆に言えば、分からないこそ、人生が面白いとも言える。
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私は、以前、映画『ベルリン天使の詩』(87,ビム・ベンダース監督)について書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=7603670938327976593#editor/target=post;postID=664663224428130536;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=30;src=postname
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未来の、なんでも、知っている天使というものは、結局、なにも知らない、と同じことだ、という趣旨の記事だった。

2016年8月28日日曜日

微分型人間と積分形の人間

と洒落れて言ったものの、要は、何の計画性もなく、何事も、いきあたり・ばったりの人間が微分型人間。

積分形の人間というのは、何事も、じっくり構えて行う人間。

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人間の性格のタイプを、ざっくり分けると、これらの二種類に分割されるように私は思う。

勿論、人間は、そんなに単純なものではないのは当然。

微分になったり積分になったりして、この世を過ごすのだが、微分が多い人と、積分が多い人との区別はあると思われる。

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私自身は自分で評価してみると、どうみても、微分形のほうだ。

加藤和彦や原節子、などの死

加藤和彦は首つり自殺したが、遺書に『死にたいというより、消えてしまいたい』と書いてあったそうだ。2009年10月16日だったそうだ。満62歳だったという。
私のような者でも、『帰って来たヨッパライ』ぐらいは知っている。
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誰も知らない者は、いない原節子は、2015年9月5日だそうだ。満96歳だという。
彼女らしい死に様だが、彼女の後半生は、加藤和彦の自殺の心情を連想させる。
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『死にたいというより、消えてしまいたい』
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『自殺者の心情』と『消えてしまいたいと思う者の心情』は、微妙に違うと私には思われる。
その差は? 説明するとなると意外と難しいように私には思われる。
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誰も、いつかは、この世をオサラバするのだが、私が、その死が意外に思った人の一人が、元・千代の富士。 2016731日。満61歳だったそうだ。
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だれでも、そういうX-day を必ず、もっている。
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さて、そのX-dayは、貴方、乃至、貴女は、いつでしょうか?

そして私自身は、いつでしょう?

「小夜の中山」のこと

私の生まれ故郷である、静岡県の旧金谷(かなや)宿は、現在の島田市金谷だが、現在、どうなっているのか、その土地の有りようを知りたくなって、グーグルマップで調べてみた。
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私の本籍地は其処にあるので、本籍地を検索欄に書き込み、調べたのであるが、全く変貌していたのには驚いた。
懐かしき、あの山、あの川が全く認識できないのである。

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昔の私のボロ家は、かげかたちも無く、全く別の町に変わり果てていた。
それはそうだろう。私は半世紀以上も、故郷である、旧金谷町を訪れたのは一度もないのだから。
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現在、私が住んでいる所だって、そうだ。私ども家族が引っ越して来た頃より、この町も随分、変わった。
このところ、私は外出する機会は、或る病院へ通院するだけで、毎日、毎日、仙人よろしく、私の部屋に一匹の猫と蟄居したままだ。テレビを見るのは午後5時半から長くて、7時まで。
新聞は、ほとんど、というより全く読まない。本も最近は全く読まない。
そうなら新聞など、とらなくてもよいのだが、家内が読むということなので、仕方なく、とっている。 そんなわけで、現在の我が町の変貌すら私は知らない。
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閑話休題。
昔のことだが、誰だったか忘れたが、「小夜の中山」を、静岡県ではなく、これまた忘れたがナントカ県に在ると言っていた。
勿論、私は、「小夜の中山」は我が故郷近くにあるから、その某の言には噴飯ものだった。しかし、私だって、来し方を顧みると、私自身が「噴飯もの」だから、その誤りを嗤うわけにはいかない。
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試しに、小夜の中山をWikiで調べると、以下のように書いてある。
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小夜の中山(さよのなかやま)または佐夜の中山(読みは同じ)は、静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠。
最高点の標高は252m。古くは遠江国の東部に属し、宿場では金谷宿と日坂宿の間に当たる。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓の日坂宿の入口には事任八幡宮があり、多くの人々が旅の安全を願って立ち寄ったと伝わるほか、遠州七不思議の一つで、赤ん坊の泣き声を発したとの伝説を持つ夜泣き石がある。
古くから、箱根峠や鈴鹿峠と列んで、東海道の三大難所として知られる。
また歌枕として古今集などで歌われ、鎌倉時代初期に西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の歌碑などが存在する
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ちょっと話題を変えるが、私の母は、当然、私同様に旧金谷宿の産だが、後年、比較的軽いアルツハイマー病に罹った。
旧金谷宿の土地の人は 「小夜の中山」 を 「さやの なかやま」 と呼んでいたと私は記憶していたので、母に其れを確認したことがある。
アルツハイマー病でも、結構、昔のことは覚えているもので、やはり 『「さやの なかやま」だよ』 と母は、私の確認に答えたものだった。
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私が、昔、買った 『平家物語の世界』(NHK放送ライブラリー) という本があって、その本で、「小夜の中山」 を紹介している箇所がある。その箇所でも 「さやの なかやま」 と読ませている。「よ」 と「や」 の違いだけであるが、その土地近辺の人から言わせてもらえば、その違いは大きいのである。「小夜の中山」 のイメージが、大変、変わる。
そう思っているのは、あるいは、私だけかも知れない。
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私が小学生の頃だったか、「さやの なかやま」 へ遠足に出かけた記憶が私にある。

そのときの、「さやの なかやま」 の、私の現在の脳髄の中に記憶しているイメージは、
『昼なお薄暗い、鬱蒼とした林の中に存在するモノ』 である。

そのイメージに残響しているモノは、あの西行の歌である。
勿論、私の大好きな歌の一つだが、好きというよりも、私という者の、一つの原型となっている。
『年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山』
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この現在の「さやの なかやま」 近辺は、現在の私の住まい同様に、全く、変わり果てていることだろう。

2016年8月27日土曜日

私の一点集中豪雨の体験 (その2)

一度目の体験については、以下で書いた。今回は二度目の体験の話である。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=1516685930310717038;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=0;src=postname
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・二度目の体験
私は勤務先を二回変えている。この勤務先は、当時の川崎市に在った。
或る電機製造会社の、或る製造部門だったが、栃木県・大田原市の某所に引っ越してきた。それで我々の家族も其処へ引っ越した。この件に関しては、以下の記事に書いた。
『いろいろな猫のこと (その1)』
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=5220595923090853773;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=34;src=postname
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私が居住する那須地域は、平成10年(1998)年8月26日から31日にかけての大水害があるが、私が此処で書こうとしているのは其の水害ではない。それ以前の一点集中豪雨のことだ。
それが、何年だったのかは全く記憶にない。ともかく其の日は、午後あたりから、何の変哲もない雨が降り出した。そして豪雨に変貌した。ここらあたりは、(その1)に書いた時と状況は同じである。
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概して、一点集中豪雨や竜巻は、そういうカタチをとるらしい。カオスなのだ。
勤務が定時(午後5時)になったときは、私の勤務している建屋の前は小川と化していた。
その建屋の前は、通勤者用の車置き場の原っぱだったが、建屋と其の車置き場の間の勤務者用の「小道」は一段低くなっていたため、その「小道」は小川化したのだった。私は当時、車で通勤していたから、多く他の人がしたように、私も其の「小川」をズボズホと渡り、車に乗った。
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勤務先から自宅まで、車で、通常は約15分。 町中を通るのだが、その町の、いたるところが、「小川」に変貌していた。私は町の役場前を普段通るのだが、この場所は、ちょっと雨が降ると直ぐ「水たまり」ができていたので、当然、今や、濁流化している相違ないと予想し、他の経路で帰ることにした。
しかし、その経路も濁流に近い状態であった。その水位は車のドアの下付近まであった。
私はエンストするかな、と思いつつ、様子をみながらノロノロと進んだ。そして、なんとか自宅にたどりついた。普段、15分程度で通う通勤が、このときは一時間以上かかったと記憶している。
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私の自宅の北側には狭い水路が在ったが、案の定、其の水路も凄い濁流で、自宅前の小道に溢れ流れだしていた。私の自宅の地面は少し高い位置にあったため、小道に溢れ出た水は、小道の下(しも)側へと流れていた。私の車の車庫は、下(しも)側に在ったため、その小川をノロノロとバックで車庫に入れた。そして其の車庫から、またズボズボと小川の中を歩き、自宅の玄関へたどり着いた。
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あのとき、車が、よくエンストをおこさなかったと今でも思う。あのときの体験は、(その1)の体験ほど緊迫感はなかったが、それでも「私の一点集中豪雨の体験」であるには違いない。
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その後、何年か後に、上記した水路は町によって整備された。我が町にとって、このときの一点集中豪雨は空前のものだったからである。この点も(その1)と同じである。
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もし、この水路が整備されなかったら、上記した平成10年(1998)年に、再び、発生した知る人ぞ知る『那須の大水害』には我が家は惨憺たる状態になっていただろう。この水害の以前に水路は整備されていたからである。
***

話は突然、今月の30日のことになるが、その日の10時に私は通院することになっている。天気予報によると、30日あたりに、台風10号が我が町を直撃する。此の台風が、この数日で、どう北上するのか。全く、天候には悩まされ続けられる、私の「今日このごろ」である。

2016年8月24日水曜日

私の一点集中豪雨の体験 (その1)

私は現在72歳だが、これまでの人生で、特記すべき、一点集中豪雨の体験は二度ある。
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・一度目の体験

あれは私の郷里、昔の言い方で言えば、静岡県の金谷(かなや)町での体験である。
金谷町は大井川の西側にある。

あの日は何年だったろうか。ペギー・葉山の『南国土佐を後にして』 が流行った年だから、ネットで調べると、1959年になる。昭和34年である。例の伊勢湾台風があった年である。

この台風は9月26日だが、我が町が一点集中豪雨に襲われたのは、それ以前だったはずだから、8月頃だったと思う。

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その年の8月頃の或る日の午後だったと記憶している。ポツポツと降り出した雨が、突然、豪雨に変貌した。そのとき、自宅に居たのは、私、母、妹、及び祖母の四人だった。父は、大井川の東側の島田市に在る勤務先に居た。

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私たち四人は、『まぁ、そのうち止むだろう』と呑気に気にもせずいたのだが、豪雨は一向に収まらず、そのうち文字どおり滝のようになった。

そうするうちに、自宅に雨水で入りだしてきた。
後で知ったことだが、我が家の近くに流れている、大代(おおじろ)川の川上が決壊したのだった。

***
自宅の侵入した水は、みるみるうちに、その水位を上昇せていった。その早さたるや、驚くべくもので、目で見ていて、ハッキリと確認できた。その内、半鐘の「早うち」が鳴り出した。緊急に避難せよ、という合図だった。そのときになって初めて、我々家族の四人は、自身の命の危険を知らされた。

さぁ、逃げようとしたのだが、そのときは、既に、我が家の前の国道一号線は、川化していた。
呑気と言えば呑気な話だが、未体験なものは、人間は呑気になるらしい。

***
我が家の前には国道線の西側の200m程に、コンクリート製の二階建ての警察署があった。

その警察署の二階に我々、四人は、なんとか、たどるつくことが出来た。その二階には既に避難してきた人たちが、十人程居た。

警察署の二階の窓から外を眺めると、その警察署の前、および国道の、更に、西側付近は、濁流化しており、そこを渡るのは不可能だった。

まさに、我々は危機一髪で、警察署の二階に逃げ込むことが出来たのだった。

***
警察署の二階の窓から外を眺めていた人が言った言葉を、私は今でも覚えている。

『死ねば、もろとも、だい』
(「だい」とは此の地域の方言で、「だよ」という意味。)

事実、此の警察署自体が濁流に耐えるという保証はなかったのである。

***
豪雨は数時間程、間断なく続いたと記憶している。その豪雨が、おさまりかけた頃は、既に、夕暮れになっており、警察署の二階の窓から紫色の雷光が盛んに見えた。

その日の夜、どう過ごしたのか、私は全く記憶にない。たぶん、自宅で戻ったと思うが、其処は、泥沼化していたはずだから、警察署の二階に泊ったかも知れない。

***
後日、知ったことだが、私の母の実家の家族は逃げ遅れ、仕方なく天井を、つき破り、其処へ逃げこんだそうである。しかし、その家も倒壊しないという保証はなかったのだから、その家族も、文字どおり命拾いしたのであった。

***
父は、その翌日の早朝、島田市の勤務先から徒歩で自宅へ帰ってきた。

現在なら、何らかの情報伝達手段があるだろうが、当時は、そのようなモノや、モノゴトの緊急性についての認識が欠如していたのだろう。

そもそも島田市は何の被害も受けなかったのである。父は大井川の橋を徒歩で渡ったのだが、凄い濁流だったそうである。もし、大井川が決壊していたら・・・その被害は私は、今でも想像も出来ない。

***
父という人は呑気な人では決してなかったが、我が家付近の惨憺たる有様を、まさか、これまでかと想像していなかったらしく、我が家への帰宅の徒歩の間、『南国土佐を後にして』 を口ずさんでいたそうである。

***
その日から約一か月間、泥沼化した我が家の補修の悪戦苦闘が、親戚一同、総がかりで始まった。全国から、「見舞い品」が町会を通して、各被害家庭に配布された。

私が、『イカの缶詰』なるモノを初めて知ったのは、その「見舞い品」からだった。

***
いずれにせよ、水というものの、恐ろしい一面を思い知らされた初体験だった。

因みに、空前の一点集中豪雨を体験した町役場の担当の人は、決壊した大代川を直ぐ補修した。

その後、我が故郷の町が、このテの災害にあったという話は私は聞いていない。

あさま山荘事件のこと

あさま山荘事件とは、Wikiで見ると、以下のように書いてある。
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あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。
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1972年といえば昭和47年だが、・・・こういうところが元号の不便さである・・・、どうも其の年が私の記憶と食い違いがある。
ともあれ、この事件のとき、私は大学の研究室の先生の指示で、或る小さな町工場(こうば)に、手伝いに行かされた。
***
その工場は従業員が五、六名だった。その工場にはテレビが置いてあった。
例のあさま山荘事件の当日も、私は其の工場に出かけた。
この事件の現場の状況は、NHKでは、終日、放送されていた。
そこで、其の工場の社長が言ったものだ。
『こんなものは、一生のうち、見られるのはマレだ。みんな仕事を止めて、テレビを見よう』
当然、私や社長を含め、全従業員はテレビだけを見ていたものだった。
***
実は、植垣康博の兄貴は、私が通っていた中学校で同級生だった。少し色黒で、背筋をピンと正し、いかにも優等生って感じだった。当時の其の学校の担任の教師が言ったものだ。
『おまえら、植垣を見ろ。きちんと座れ』。そう言われた植垣は苦笑いをしたのを、私は、ありありと覚えている。
***
その中学校で思い出したことがある。話が全く飛ぶが、その学校の生徒たちは、必ず、何かの、倶楽部に入っていなければならなかった。
そこで私は『園芸部』に入った。その倶楽部は見知りの友人たちが五、六名いた。
その『園芸部』の活動はーーーーもっぱら、友人たちとダベりながらの雑草とり、というと恰好がつくが、要するに、しゃがんで周りの雑草をイイカゲンに、むしりとるだけだった。
***
我らはボンクラ生徒たちだったが、かの植垣は何の倶楽部に入っていたかは知らない。

たぶん、柔道部あたり、だったろう。

蜂などの集合共同体生物は全て♀(めす)

蜂などの集合共同体生物は全て(めす)なんだそうだ。
そもそも生物の進化は、から(おす)が分化したところから爆発的に発展したとか。
つまりの言わば『変種』に過ぎないようだ。だから根源的にの従属たる存在で、より偉そうな空威張りをしているのは人類というより人間だけではないだろうか。
ただライオンは違うようだが、私は其の詳細は知らない。
人間の平均寿命が男性より女性のほうが長いのは、あながち「社会の仕組み」だけではないだろう。
***
平塚らいてうの、あの有名な言葉『元始女性は実に太陽であった』。
或るサイトで、この言葉の意味について質問があって、或る人が以下のように回答してた。無断で引用してみよう。
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原始共同体の社会では、集団結婚なので、母親はわかるが、父親がだれだかわからない時代が長く続いた。
生産、生命の再生産、つまり、子どもを産むということは、奇跡だったのです。親は、母親しか、はっきりしない。子どもを産むという、生産力の象徴ですね。
女性が、高い尊敬をもたれていた。モルガン「古代社会」エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」を読んでみてください。
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実際のところ、男なんて例えば退職したらツブシは全く効きない人が多いだろう。ゴミ扱いの男ども多いじゃあないだろうか。
***

例えば、介護施設の入居者たちの、お遊びで、チーチーパッパ゜等を、やるとき、どうも男性の入居者は居心地が悪そうに、私には見える。尤も、人に依るだろうが、概して、男どもは女性たちに比べ、恐らく、そういう、お遊びゴッコは苦手だろう。

2016年8月22日月曜日

十和田湖でオート・キャンプしたこと

名前は忘れてしまったが、十和田湖の近くのオート・キャンプ場で私たち夫婦は、オート・キャンプしたことがある。

高速道路を使って行ったのだが、家内の車の運転が、これまた乱暴で、ヒヤヒヤしたものだった。

***
現在と違って、オート・キャンプ場での炊事場や便所は頗る環境が悪く、今でも覚えているが、その便所の不潔たるやスゴイものだった。

また、そのオート・キャンプ場には若者たちが大勢きていた。

尤も、我々夫婦も、それなりに若かったのだが。

そのオート・キャンプ場には一泊したのだが、その夜中に、例の若者たちがドンチャン騒ぎをした。

まぁ、仕方がないと言えば仕方がないが、そのあまりの騒ぎに私は腹が立って、その若者たちに文句を言いにいったことを覚えてる。

***
奥入瀬渓流にも寄った。実に、すがすがしい渓流だった。

その渓流の何処かで、たぶん其の土地の近辺の若者だろうが、その渓流の中を見て、『すかなが すんでる』 と言ったことを今でも私は覚えている。 たぶん 『魚が死んでる』 と言ったのだろう。
私だって、遠州のド田舎の出身だから、方言を軽蔑するはずもないが、この 『すかな云々』 を耳したときは、内心、愉快だった。

***
帰路は国道4号線を、のんびりと車で帰ってきた。場所は忘れてしまったが、そのときの街の折々の日常の風景を、ぼんやりと覚えている。

また、これまた名前はド忘れてしまったが、大きな木造の銭湯があって、たしか混浴だったと思ったが其処にも立ち寄り、入浴した記憶がある。

***
いずれにしても、あの頃は、私たちは、それなりに若かった。

現在の私が外出するのは病院へ通院するときだけである。

猪苗代湖でオート・キャンプしたこと

私共夫婦は猪苗代湖には車で、よく出かけた。ついでに、五色沼にも出かけたものだった。

***
あれは何年前だったろうか。少なくとも30年程前だろう。

あるとき、私共夫婦と、当時、飼っていた犬と猫 (二代目のドンベー) を連れて、猪苗代湖でオート・キャンプしたことがある。

当時、私たちは、猪苗代湖へ行くには、今や道順を忘れてしまったが、山道を経由して行ったものだった。結構、坂道が多く、また曲がりくねった道が多かった。

***
人間よりも犬・猫のほうが、平衡感覚が鋭い。

そのためか、車中で犬が吐いた。猫は車中で、大暴れした。

しかし、ともかく、猪苗代湖の浜辺に到着した。犬・猫は直ぐ解放してやった。

その浜辺にキャンプを張ったのだが、その場所はオート・キャンプ専用の場所ではなく、ただの砂浜だったが、周囲の景色は良かった。

夕陽を見るのは気持ちがよかったものだ。

犬・猫は、その場所の近辺を自由に遊ばせてやった。
犬は湖の中へ少し入って、ハシャイダものだった。

***
その場所で一泊したのだが、その夜も犬・猫は自由にさせていた。

夜中に何処かに逃げ去ることもなく、早朝には其のキャンプ近くに居た。

***
私は、現在、うっすらと覚えているのだが、そのとき、もっていった本が、ライアル・ワトソンの 『生命潮流』 だったと思う。

***
そのキャンプの帰路は、普通の道路にした。そのためか、車中の、犬・猫は共に、おとなしかった。

大原オート・キャンプ場のこと

1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェットが、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。

***
実は、その日、私と家内は、太平洋に面した千葉県の現 いすみ市大原に在る「大原オートキャンプ場」に居た。

私の務め先の、その年の夏の連休が、確か、8月11日から始まったので、私の現住所の栃木県の現・那須塩原市から、車で、遠路はるばる、大原オート・キャンプ場へ出かけたのが、8月12日の正午頃だったと思う。

***
その頃、私は、オート・キャンプに凝っていた。

車は普通の車で、特に、オート・キャンプ用ではない。キャンプ用具も特に変わったモノはなく、安物ばかりだった。ただ、携帯用ラジオと 「折りたたみ式自転車」 は二台、もっていった。

***
大原オート・キャンプ場に到着したのは、午後6時頃だったと思う。

意外と混んでいた。どこか、テントを張る所はないかと探したが、ゴミ捨て場の近くに空所があった。仕方なく、そこにテントをはった。

車の運転は私だけが行っていたので、私は疲れていた。
そこで、テントを張ったら、すぐテント内で体を仰向けにして休んでいた。

***
キャンプ用の夕飯は家内が作っていたが、そのとき家内はラジオ聞いていて、私に向かって言った言葉を今でも覚えている。

『なんか、大きな事故が、おこったみたいよ』
***
私は、『ふ~ん』 と答えて、別に関心はもたなかった。

私と家内は翌朝は、ラジオも聞かず、海岸に沿ってあった小道を自転車に乗って遊びんだものだった。その日の正午頃、再び、車で自宅へ戻った。

そして、キャンプ場で何気なく聞いた事故が、とんでもない事故だと知ったのだった。

***
あれから30年余り経った。

なんだか私は、そんな昔のことのようには思われない気がする。

2016年8月21日日曜日

日本うまれの横綱なんていらない

というか、横綱に人種など、どうでもよい。
私はスポーツには関心がない人間だが、大相撲のテレビ中継は暇にまかせて毎場所みている。
近々、九月場所が始まるが、その関心の一つは白鵬。正直、私は日本生まれの力士には関心がない。我々は、白鵬という天才をリアルタイルで見る幸運な時代に生きている。ちょうど将棋の天才・羽生善治をリアルタイムでみることができるように。
天才たちをリアルタイムでみることができるということは、同時代人にとって幸運なことなのだ。私は残念ながら天才・双葉山をリアルタイムでみることはできなかった。
***
相撲というモノは日本古来の伝統を受け継いでいることは言うまでもない。そういう意味では能・歌舞伎と同様に伝統芸能と何ら変わらない。だからといって、その伝統芸能の担い手が日本生まれの人でなければならない理由は、少なくとも私には見つけることができない。人種は少なくとも私には其の理由にはならない。
今や大相撲はモンゴルの人たちが大活躍している。結構なことではないか。
一部には「日本うまれであること」にこだわる人も少なからずいるようだ。モンゴル人他ガイジン(嫌な言葉だ)が関取の多数を占めるが故に、なにかと嘆く。
私はその嘆きを耳にするとき或る不愉快さを常に感ずる。その不愉快とは?
要するに、嘆く人間たちの度量の狭さだ。人種差別とまでもは言わないが、その萌芽を私は感じてしまう。
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いまさら言うまでもなく、大相撲は畢竟勝負の世界である。強い者が勝ち弱い者は負ける。そこには人種の壁は基本的にない。私自身の好みから言えば、日本生まれの力士達より外国の力士達に応援したいし、している。彼らは始めから、いろいろなハンディーを負っているからだ。一種の判官贔屓だ。
日本生まれの力士達よ、悔しかったら、勝て!! コトは単純である。
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さて、もしかしたら私は此の大相撲において「歴史」を、この目で目撃できるできるかも知れない。それは白鵬が双葉山を超える一瞬だ。そのスリリングな光景には人種の差など「チイセー、チイセー」。

台風9号がくるぞ

天気予報どうりに進むと、22日の真夜中あたりに、当地は直撃される。

http://weather.yahoo.co.jp/weather/video/

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子供の頃は、台風がくると休校になったもだ。
だから台風、大歓迎だったが、今や、心配の種になってしまった。

真夜中に停電でもされたら、我が体どうなるやら。
私と同居している、3匹目ドっちゃんも心配だ。

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最近は地震も多い気がする。
いよいよかな、という気がしないでもない。

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各地のダムでは渇水状態だという。
そういう意味では台風サマサマなんだろうが・・・

2016年8月20日土曜日

ジェット・ストリームの思い出

昭和45年の夏の或る夜、私は大学の学部の卒論作成のために徹夜したことがある。
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その卒論のタイトルは未だ覚えている。いわく、『トランジスタの温度特性の応用』。当時、トランジスタと言えば、Geトランジスタしかなく、その温度特性は極めて悪かった。それを逆用しようというわけであった。
同じテーマを選んだ友人が一人いた。彼は其の頃、尺八に凝っていて、卒論のための実験の合間に、『笛を吹いてくる』とか言って、卒論の実験をしていた研究室から抜け出していったものだった。
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後年の話になるが、私の最初の勤め先の入り口の門近くで、彼と偶然出会ったことがある。その頃、私は相変わらず、或る所に下宿していたのだが、その下宿から勤め先は自転車で通っていた。
彼とは偶然出会ったのだが、そのとき『オレが乗るからオマエは後ろへ乗れ』と言うなり、さっさと私を乗せて私の下宿まで行ったものだった。今や彼の名前は忘れてしまったが、当時の顔だけはナントナク覚えている。少し、出っ歯ぎみの男だった。
しかし、お互い、若かったから、自転車の二人乗りも出来たに違いないから、今から思えば信じられない行為だった。勤め先から下宿までは、自転車で20分程度かかっていたはずだった。
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閑話休題。
その卒論実験のために徹夜したわけだが、退屈だから、私はラジオを聞いていた。
そのとき聞いてのが、城達也の『ジェット・ストリーム』だった。
実は、私は、この番組は、その時ばかりではなく、私は当時の下宿・・・
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=4721940366796351529;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=73;src=postname
・・・で、よく聞いていた。
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だから、この、城達也の『ジェット・ストリーム』を、今でも、ときおり耳すると、当時の徹夜を私は懐かしく思い出す。
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当時、私が、上にリンクした下宿で、よく聞いていた番組の一つに、串田孫一の『詩と音楽と随想』という番組があった。この番組のオープニングの曲は、ビバルディの『四季』の中の「冬」か何かの第一楽章の出だしだったことを今でも覚えている。

『弦楽四重奏:アメリカ』(ドボルザーク)の思い出

私が大学生の頃の下宿・・・
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=283570752891620543;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=71;src=postname
・・・では、電気炬燵さえ無いことは、以前の記事に書いた。
しかし、実はラジオだけはあった。そのラジオは確か、FM放送は聞けるには聞けたが、モノラルでしか聞けなかった。
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昭和42~44年頃のことだが、今でも覚えているが、その下宿の他の部屋の学生が、『ベートーベンの交響曲第5番』をラジオで放送するということを、どこからか知らされて、跳んで帰ってきた。 以下は、そんな時代の話である。
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だいたい私は其の頃は、暇なときには、狭い3畳の部屋で寝ころがってラジオを聞いていた。FMのモノラル放送を聞いていたものだった。
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なんという番組か忘れてしまったが、リクエストされた音楽を放送する番組だった。
何気なく聞いていたら、『弦楽四重奏:アメリカ』(ドボルザーク)をリクエストした人がいた。私は其の頃、この曲を知らなかった。
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この曲をリクエストした人は、何処かの病院で入院している青年だということを知らされたとき、私は、なんとなく其の人を想ったものだった。
勿論、私は全く知らない人だったが、そのとき、その人に或る種の「懐かしみ」を感じたことを私は今でも覚えている。
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爾来、私はドボルザークの『弦楽四重奏:アメリカ』を聴くたびに、見知らぬ其の人のコトをも想うようになった。

『インド飛翔の響き』

サンツールという楽器をご存知だろうか。
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シブクマール・シャルマというサンツール演奏者と、ザキール・フセインというタブラ演奏者による東京公演が、1888年に行われた。
この演奏会の様子は、当時、NHK TVで放送された。また、NHK FN にも『世界の民俗音楽』と言う番組があって、そこでも放送された。
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このサイトの或る方が、この東京公演の様子を、You Tube に up-load された。
幸いにも其れは未だ削除されておらず、視聴できる。
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この演奏会で最初に演奏される『プパリ』という曲が特に良い。
また此の演奏会ではサンツールやタブラの解説も行われている。
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興味あるかたは、見てみるとよい。

フライ・フィッシングと私の絵遊び

キャッチ アンド リリース という言葉を日本に紹介したのは開口健だと思ったが私の勘違いかも知れない。
私が、もし不幸にも人間に生まれ変わったら究めてみたいものの一つにフライ・フィッシングがある。食うために魚釣りするのも結構なことだが、魚と遊ぶという精神性には惹かれるものがある。
私も一時期魚釣りに凝ったことがある。もっぱら鯉や鱒釣りだったが「坊主」であることが多かった。魚釣りは外見はノンビリしているように見えるのだが、多くの魚釣り好きな人もそうだろうが心中はイライラしているのが実態だろう。
ならばこそ、かのアイザック・ウォルトンが『釣魚大全』で「Study to be quiet」と書いたのだろうが、この言葉を開口健は「穏やかであることを学べ」と訳していた。良い言葉だと思う。
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私は以前、絵遊びをしていたものだが、其のキッカケとなった本の著者・C.A.ピックオーバーは其の著書の中で此の遊びを評して以下のように書いている。
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私はときどき自分を釣り師になぞらえてみる。コンピューター・プログラムとアイデアは釣り針であり、リールである。コンピューターで描きあげた絵はトロフィーであり、うまいご馳走である。釣り師には、何が釣れるかがいつもわかっているわけではない。
しかし、どこがよく釣れるか、どの流れに魚がたまっているか、などについての知識はもっているだろう。しばしばびっくりするほどの大物が釣れるが、これこそまさに釣りの醍醐味である。しかし、保証はない。そのかわり予期しない楽しみもある。
読者もぜひ未知の釣り場で実際に糸を垂れてほしい。できれば、釣りあげた獲物を観賞し、さらにそれを解剖し、内部の構造を調べてほしい。
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誠に正鵠を得た譬えである。この絵遊びの精神はフライ・フィッシングの其れと全く異ならない。
何事にも長続きしない悪癖を持つ私が30年間も此の遊びを続けているのも、数学の複素平面という実にピュアな「渓谷」があるからだった。其処には実人生の騒音もないし、或る意味での孤独が沁みとおるように楽しいからだった。
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久しぶりにブライアン・イーノの「DAY OF RADIANCE」を聴きながら