昔、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の主要登場者が猫で擬人化されたアニメーション映画を私は観たことがある。ジョバンニとカンパネルラも猫に擬人化されて登場したのであった。
私はアニメーション映画は数本しか観ていないが、上記したものは今でも印象深く記憶している。何年頃の作品だったかをネットで調べてみたら、1985年だと分かった。
スタッフは下記だった。
監督:杉井ギサブロー
原案:ますむらひろし
脚本:別役実
音楽:細野晴臣
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宮沢賢治の作品の中で此の童話が私は最も好きだが、この童話に底流している或る哀しさや孤独性は猫というキャラクターによって、より昇華されているように私には思われた。
猫という生きものは、飼ったことのある人なら分かるだろうが、人間( 飼い主 )と一定の距離をおく孤独性を内に秘めている。また、それゆえの或る種の翳(かげ)も秘めている。その点、犬という生きものとは全くと言ってよいほど異なる。
もし此のアニメが犬に擬人化されていたならば、此の童話から受ける私の感想は・・・以下に書くが・・・全く別なモノとなっていただろう。
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この童話において銀河鉄道とは此岸から彼岸へと向かう鉄道列車だと私は想像する。
その列車に乗る人たちは冥界へと旅立つ人々に私には見えるのだ。
この童話に底流しているものは先に書いたように『哀しさ』と『孤独』なのだが、それらは一言をもって換言すれば『悲哀』だとも言える。
思えば、人の感情において『悲哀』ほど微妙にして陰翳深いものはない。
オスカー・ワイルドは『獄中記』において悲哀について以下のように書いている。
『悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴き出す傷痕である。否、愛の手が触れる時すらも、痛苦でこそなけれ血が滲むものである。(阿部知二訳)』
冥界へと旅立つ人々は自身の現生を顧みて多かれ少なかれ、其のような悲哀を感じているはずである。
やはりカンパネルラも彼なりに、そうであったろうし、ジョバンニは此岸に戻るにしても彼が再び銀河鉄道の旅人になるときには、そうであるのだろう。
いずれにしても此の童話の静謐さは、このような悲哀にある。
そして、我々、いきものは全て、いつかは此の銀河鉄道の乗客となる。
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私は夜空を見上げたとき、遠い遠い銀河の向こうに一つの列車が走りすぎていく小さな姿を見つけることができる。