2015年5月15日金曜日

二十憶光年の孤独

どういうわけか私は『二十憶光年の孤独』という言葉を最近しきりに想う。

私の頭というか心というか胸のあたりというか、ともかく此の言葉が私のうちに淋しく去来するのだ。

この言葉が谷川俊太郎の詩の題名であることは私は以前より知っていが、その詩そのものは何も知らなかった。

しかし、この言葉が、最近、或る悲しい色彩をもって私のなかに切実に去来する。

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「まっちゃん」という人が先日、乳がんで亡くなったことを家内から知らされた。

この人は家内の遠縁の人で私は逢ったこともなければ声も聞いたこともない人だった。しかし此の人が必ずしも幸福円満な境遇にはいなかった、ということは家内から以前より聞いてはいた。なにか複雑な事情があって此の人は上京し、裁縫で、一人、身を立てていたようだ。

この人が裁縫学校に入る際、保証人が必要だったらしく、それを頼む近縁の人が見当たらないので、断われる不安をいだきながら都内の家内の実家に頼ってきたとのこと。

家内はその頃実家の家事をしていたのだが、温かいお茶一杯を此の人にもてなしたのだろう。それが此の人には大変、嬉しかったらしく、その後、なにかにつけて誰彼に其れをもらしていたようだ。

この話は実は私が家内と結婚する前のことだが、私共が現在地に引っ越してから何年か後に、この人から毎年、夏、『ほうずき』が私の家に届くようになった。

この人は『ほうずき市』の日、浅草寺に詣で、私共夫妻の健康を祈願していたという。

『暖かいお茶一杯』が余程此の人を慰めていたのだろう。

送られてくる『ほうずき』を私は見ながら、随分、「まっちゃん」という人は律儀な人だと思ったものだ。

そして『情けは人のためならず・・・』という言葉を思い出しながら、『回り回っていく情け』は「まっちゃん」にも回っていたに違いないと今更ながら私は思う。

「まっちゃん」は乳がんの手術を拒否し続けたという。そして天命を全うした。

私には知らない人ではあったけれど、この人の死は、やはり私には決して浅くはない痛みを残している。

「まっちゃん」の人生は、やはり、「二十億光年の孤独」という言葉が似合うような気が私はする。

この詩をネットで調べてみると下記のような詩だった。

この詩の意味するところが何であれ、「まっちゃん」のみならず、「いきもの」全ての生や死の孤独は、「二十億光年の孤独」という比喩が私には何かぴったりとするような気がする。

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二十億光年の孤独   谷川俊太郎

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である
 
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした