2015年8月30日日曜日

死とは雑念からの解放

『平家物語』に『鬼界が島』に追放された俊寛僧都の有名な話がある。

知る人ぞ知る悲話であるが、有王は都へ生還し俊寛の娘に会う。
その箇所を『平家物語』は以下のように簡潔に記述している。
---------------------
(前略)その後都へ上り、僧都の御女の忍んでおはしける所へ参つて、ありし様、初めより細々と語り申す。なかなか御文を御覧じてこそ御思ひはまさらせ給ひて候ひしか。硯も紙もなければ、御返事にも及ばず。思(おぼ)し召され候ひし御事、さながらむなしうやみ候ひにき。(後略)
----------------------  

『思(おぼ)し召され候ひし御事、さながらむなしうやみ候ひにき』

この文章は含蓄のある言葉だ。

『平家物語の世界』(水原一著、NHK放送ライブラリー、昭和51年初版)では著者は此の言葉の意味を以下のように解説している。

----------------------
私たちは一瞬の休みもなく次から次へといろいろな事を思い続けております。
人一日一夜を経るに八億四千の思いあり、などと申しまして、とりとめもない事も、まともな事も、とにかくびっしりと思い続けている。

死ぬということは、その人間の中味ともいうべき念々の思いが一切絶え、雲散霧消してしまうことなんですね。鬼界が島で生を終えた俊寛。無限の思いを抱きながら、その一切が、「むなしうや」んでしまった、その空しさこそが「死」というものなのであります。(後略)
---------------------

名解説と言えるだろう。