後期の鴎外の一連の史伝での晦渋な語彙は此の短編にはなく、平易な文章で書かれているからだ。
だからといって、安易な文章では決してない。
鴎外流の無駄のない筋肉質な簡潔な文章は現在読んでも快い。
大岡昇平の言葉を借りれば「均整のとれた観賞的態度で貫かれている」のだ。
この『高瀬舟』は大正五年一月に書かれているが、芥川龍之介の「鼻」「羅生門」などの初期の歴史小説は、『高瀬舟』から出たと言っても過言ではないと大岡昇平は書いている。
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よく知られているように此の『高瀬舟』は安楽死の問題をテーマにしている。この短編が書かれた頃は安楽死という日本語は無かったのか鴎外はユータナジィというフランス語を使っている。
この短編では鴎外は明らかに或る状況下での安楽死を肯定している。
この短編が書かれた頃の世間常識では此れは特異な見解だったかも知れない。
あるいは今日においても、如何なる状況下でも安楽死を認めない宗教があるかも知れない。それほど、安楽死という主題は重い問題であることは間違いない。
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安楽死という問題は、鴎外は此の短編において時代を先取りした観がある。
鴎外は医者でもあったから鴎外にとっては身近な問題だったのだろう。鴎外の時代でも医者の間で安楽死をさせることの当否の両論があったらしい。
そして今日において安楽死の是非は我々庶民レベルでも切実な問題となっている。
事実、私の父が脳梗塞で倒れ生死の境をさ迷っていたとき、担当医は状況によっては安楽死させるか自然死を待つか決めておくように私に言った。
いかに苦しかろうが自然死を待つか、無為な苦しみから解放させるべく安楽死させるか、その選択をしておくように担当医に言われたものだ。
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この『高瀬舟』での鴎外は「無為な苦しみを長引かせるより安楽死をさせる」ことを肯定している。
ここで問題となるのは『無為な』であるが、その判断の困難さだろう。医者は万能ではない。その判断を全面的に医者に委ねるのは酷だろう。
結局のところ、『無為か否か』を決めるのは当人しか、あり得ない。しかし現実には其れを決める当人が死線をさ迷う状態ならば、他人が決めるしかない。
だから、よく言われることだが、自分自身の始末は其の判断ができるときに決めておき、出来る限り文面化しておくのが此の超高齢化社会においては、もはや他者への義務だろう。
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今や、「いかに生きるべきか」よりも「いかに死ぬか」のほうが、社会的・文学的あるいは哲学的、ひいては一般社会常識での切実な問題になっていると私は思っている。