2014年10月22日水曜日

『グレート・ビキン』と『遺伝』(萩原朔太郎)

数年前のNHK・BSで、『グレート・ビキン』というドキュメンタリー番組が放送された。
このドキュメンタリーは2004年制作だから、劇場等でご覧になった方も多いだろう。
このドキュメンタリーの内容の詳細は下記リンク先で紹介されているから、それをざっとみていただきたい。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4155

上のリンク先で解説されているように、このドキュメンタリーの主題は、一口で言えば、『私たちは何処から生まれ、何処へ去っていくのか?』とでも言えると私は思うが、この主題は、この宇宙生成と消滅へと拡大されている。

私たち人間も含めて『いきもの』は、この宇宙で拡散浮遊している、言わば塵(ちり)から生成されたものであり、やがては、再び、この宇宙への塵へと消滅・拡散していく。この世の全ての物象は、この地球での、つかのまの存在であり、その存在は、地球をも包む大宇宙の中へと消えてゆく。そして再び、その拡散した塵は集結し、この宇宙でなにものかの物象として生成していく。時間という概念を更に超えた超時間の間の輪廻転生と言えるのかも知れない。

このドキュメンタリーの背後から以下の『つぶやき』が聞こえてくるように感ずるのは私ばかりではあるまい。確かに、このドキュメンタリーは背後に形而上の問題も提示している。

『生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)の始めに罔(くら)く、死に死に死に死んで死の終わりに罔し』(空海)

『私の一生の短い期間が、その前と後に続く永遠のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知りもせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを考えるとき、私は自分がここに居て、かしこに居ないということに、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこに居ないでここにいるのか、なにゆえ私がかの時に居ないでこの時に居るのか、全然、その理由がないからである。誰が私をここに置いたのか? 誰の命令、誰の指図によって、この時この所が、私にあてがわれたのか?』(パスカル)

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このドキュメンタリーのハイビジョンで放送された映像の美しさ、というより生々しさには圧倒された。特に人間の子宮内の胎児の映像は圧巻であって、まるで胎児を直接目撃しているような生々(なまなま)しさだった。どのようにして撮影したのだろうか。また自身の頭部より大きい卵を飲み込む蛇の生態の凄さ。 ここでは『いきもの』のもつ冷徹さも見据えている。
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詩人の感覚というものは鋭いと私はつくづく思う。このドキュメンタリーが提示していると私が感じている感覚。それは『いきもの』の原初的で根源的に罔(くらさ)だ。この罔さは、この大宇宙のなかでの『いきもの』の罔さでもある。冥土的な罔さと言い換えてもよいかも知れない。宇宙の中の『いきもの』の原初的・根源的な罔さ。この詩人は見事にそれを表現していると私は思う。このドキュメンタリーの背後にある形而上の命題は、この詩によって言葉で表現されている。

『遺伝』(萩原朔太郎)

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠ってゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
  のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向こうで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
   のをあある とをあある やわあ

「犬は病んゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのです。」
遠くの空の微光の方から
ふるえる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
    のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでゐるの? お母さん。」
「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのですよ。」