2016年8月30日火曜日

猫と一緒に居ること

私は、現在、自宅から出ることは、めったにない。一週間に二回、約100m程離れたゴミ捨て場を往復することと、毎月一回、約10Km離れた所にある病院を車で往復すること。原則として、それだけである。

***
その他の時間は、自宅の二階で猫一匹 (3代目の、トッチャン) と文字通り、蟄居している。何か用事があれば、自宅の一階に下りていくことがあるが、それ以外は、二階で、この猫と同居している。

***
以前の記事で書いたことがあるが、我が家には二匹の猫がいる。しかし互いに仲が悪い。その二匹の猫のうちの一匹は、いつも一階の部屋か我が家の外に居る。

二階の猫は、家の作りの故もあるが、二階の12畳の、事実上の私の部屋から出ることはない。

いつも私と一緒にいる。私が此の世をオサラバするまで、この猫は、おそらく、二階の12畳から出ることはないだろう。

私の傍で、いつも狸寝入りしている此の猫の顔を見ていると、ちょっと哀れに思える。

***
しかし、もし、此の猫が居なかったら、と私は思うことがある。共にダメ人間と、ダメ猫ではあるが、私は、さぞかし淋しく思うだろう、と思うのだ。

***
私のように外部との交流もなく、蓑虫 (みのむし) よろしく、言わば、刑務所の 「独房」 に居る人間にとって、なんであれ 「いきもの」 が皆無である、ということは、耐えられのではないか、と私は思う。一本の草木でもよい。「いきもの」 に必要なものは 「いきもの」 ではないか。

***
随分、昔のことであるが、新聞か、ラジオか忘れたが、或る些事を報じていた。

それは一人住まいの老女が長い間、飼っていた一匹の猫が、或る日より水しか飲まなくなった。

その猫も老いていた。そして或る日、その猫が居ない。その老女が探してみると、その猫の水飲みようの皿近くで死んでいた。

ただ、それだけの、チッポケナな報道だった。

***
その 「些事」 を私は、何気なく聞いたか見たかしたのだが、さぞかし、その老女は淋しいだろうと、なぜか私は痛切に感じたことを今でも私は覚えている。

***
そのテの報道は些事として毎日のように、あたかもゴミ記事のように、報じられているだろう。しかしーーーー
***
しかし、ダメ人間であろうが、ダメ猫であろうが、今生の、誰も気づきもしない場所で共に過ごした時間を失うということは、残された 「いきもの」 にとって、他人の知らぬ簡単に癒されぬ痛みがあるに違いない、と私は思う。

***
「いきもの」 同志というものは、そういうモノだろう。

私は、私の傍で、いつも狸寝入りしているトッチャンの顔を見ていて、そう思うのである。