2014年8月12日火曜日

詩人・山本陽子と能「黒塚」

山本陽子(←俳優さんじゃぁないよ)の詩には私は関心があって、というより彼女の感性に興味がある。彼女は人類の範疇をはみ出している観がある。但し、『言語』に関してだが。

事実、彼女は地球外生命体だったかも知れない。
そのように比喩する人もいる。彼女の詩を、ここで紹介するのは到底不可能だ。興味ある人はネットで「詩人 山本陽子」として検索してみるがよい。その凄さに驚くだろう。

彼女は自身の詩を『200年後には理解されるだろう』と書いていたと思ったが、最近はYou Tube で彼女の詩が紹介されたりしているから、、200年どころか50年を待たずして彼女の詩が人々の間で認知されつつあるのかもしれない。

以下は実は随分前に書いた日記だが、このところ話がコチラのほうに及んできたので追記・再掲しよう。
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彼女は1943生まれで亡くなったのは1984年。肝硬変で死亡。

その直前までの彼女の生活は午前中安田生命ビルの掃除婦をし、午後は読書、その後は一人住まいの目白の公団自室で酒にくれるという日々を九年間続け、その中から意味を拒絶する言葉の連なりをつむぎ出していたそうだ。
意味を拒絶する言葉を !!!

数百行にも及ぶ彼女の詩は、詩というより、私は一種の呪文に思えてならない。
従って、私は以下に書くような勝手な妄想をしてしまうのだ。
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生前、彼女は自室には誰も入れなかったそうだ。時折、母親が訪ねてきても戸口での立ち話ですませていたそうだ。ある日、近所の人が彼女の異様に気付き部屋に入ろうとしたが鍵がかかっていて入れない。

そこでレスキュー隊が駆けつけ部屋を突き破り、彼女を強引に病院へ連行。その数日後にその病院で彼女は死亡した。病院で死亡と言っても実態は限りなく自殺に近かったのだろう。 41歳だったそうだ。

死後、残された彼女の部屋に残されていたものはフライパン一つと数冊の推理小説の類と意味不明の絵だけだったそうだ。その絵は、気味悪いということで遺族に処分されたとか。晩年の彼女の部屋は察するに索漠した空間だったのだろう。

彼女は何故この自室に誰も入らせようとしなかったのか?
この拒否は何を意味するのか?

その一方で、私に言わせれば呪文のような意味不明な言葉を、(恐らく)真夜中一人で綿々と書き綴けている・・・
ここで能『安達原』のストーリーの概略を紹介しよう。

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『黒塚』の能は、その舞台である陸奥(みちのく)の荒野の名をとって『安達原』とも呼ばれる。行き暮れた旅僧の目に、一軒家の灯がうつる。あばら家にひとり住む女は山伏の望みに宿を貸し、もてなしのために山に薪を取りにのぼる。その際、女は旅僧に家の閨(ねや)は決して見てくれるなと言い残す。

女が外出したとき旅僧は、『閨(ねや)は決して見てくれるな』という女の禁を、好奇心にかられて見てしまう。しかし旅僧が見たものは・・・山づみと重ねられた人の腐乱した死骸であった。驚いた旅層は逃げ出すが、女は鬼となって追いかける・・・
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この日記で何度も紹介している『能の表現・その逆説の美学』(増田正造著、中公新書)という本で、この『黒塚』の女のタブーについて以下のように記述している。
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『黒塚』の女のタブーとは何だろう。密室に隠された死骸とは、女性の暗い魔性の秘密であり、その性(セックス)の持つ、ある残忍さの象徴であろうか。あるいは人間が生きていくうえに冒かさざるを得なかった罪業の集積なのか。(中略) 糸車を繰りつつ人生のむなしい長さをかこつ前シテの狐愁とともに、この能は何か深い意識の底でわれわれをおびやかす。(後略)
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『黒塚』の女が決して見るな、と旅僧に念をおしたものが何であれ、それは他人には決して知られたくない罔(くら)い己の本性かも知れない、と私は思ったりする。

山本陽子は決して自室を他人に見せようとはしなかった、その理由は・・・(これは私の妄想だが)・・・『黒塚』の女のタブーと本質的なところで似ているのではないか。

勿論、山本陽子の自室に、腐乱した死骸が山積みされていた、なんてことじゃぁない。
決して安易に知られたくない彼女の内面の本質が、その自室に在ったに違いないと私は思うのだ。

その本質とは、上記の本の記述のように、女性の暗い魔性の秘密であり、その性(セックス)の持つ或る残忍さかも知れないし、あるいは人間が生きていくうえに冒かさざるを得なかった罪業の集積かも知れない。

ここで女性と言うより私は『いきもの』と言い換えてもよいと思う。『いきもの』の罔(くら)い本性と原罪。それを彼女は「呪文」として書き連ねていたのだ。『黒塚』の鬼女のように。私には、そう思える。そして、それは下記の空海の言葉にも通低しているように私は思う。
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『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに罔(くら)く、死に死に死に死に死んで死の終わりに罔し』(空海)