2016年7月24日日曜日

『他者を食う』ことの是非 (その3)

私は、また、以下のように発言した。
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もし、縄文人が鴎外、漱石の死生観を聞いたら、なんと答えるでしょう? 私には大変興味深くかつ痛切な疑問です。
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そしたら、Aさんは、以下のように発言した。
(後で分かったことだが、Aさんは実際に縄文人の生活を知るべく、山で狩猟生活の体験をしていた。)
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その答えは Zさんや我々には、山の生活から見出せるかと・・

例えば、自分なんか思わぬ近距離で熊に立ち上がられた時なんか、resignation なんてこれっぽっちも考えません。

とにかく夢中!夢中でその場を切り抜ける!

生きようとか、死のうとか、家族がどうこうとか・・そんな事全く考えてません。 夢中、ただ夢中!
実は夢中こそ、生の主役じゃないかと。

例えば、物事に打ち込んでいる職人さんなんかは、死期が迫っていても少しでもいい作品を作ろうと、残された時間を夢中で仕事に打ち込む。

動物もそう・・モーメントモーメントが夢中です。
そこには、死の恐怖も苦痛も、痛みすら、入り込む余地がありません。

そして、夢中から覚醒する瞬間、瞬間に・・・
ただただ、生の喜びがあるだけ!

生きるのに夢中で挑んだ縄文人や山の民からすると、

漱石さんや鴎外さん、実はあなたがた、 狩猟採集を他人任せにして、暇を持て余しているだけなんじゃない?

とか、案外醒めたリアクションが待ってるだけかもですね。
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そこで私は以下のように、Aさんにリコメントした。
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たぶん、貴方が仰っていることが、『縄文人』の回答でしょうね。 大変よく理解できます。

ただ、私も含め現代の人々(人類)は、縄文時代には帰られないことも事実ですよね。

貴方の生き方は、やはり例外と言わざるを得ない(気分を害さないで下さいね)

結局、鴎外や漱石の苦悩の根底は其処にあると私は思いますよ。

つまり、私たちは縄文人の知らなかった現代の文明社会に生きざるを得ない。

もし、縄文人に、現代文明を選ぶか、または縄文文明を選ぶかと問うたら (馬鹿げた仮定ですが)、おそらく現代文明を選ぶのではないかと私は思いますよ。

繰り返しますが、私たちは過去へは戻れない。

気分を害する言い方を敢えてしますが、趣味としての縄文文化なり文明を「楽しむ」のは容易なことですし、大変、意義あることではあります。しかし其れは趣味の範囲を出ることは、残念ながら不可能でしょう。

良くも悪くも私たちは此の現代の文明のなかで生きざるを得ない。

そこに鴎外や漱石、ひいては現代を生きる我々の苦悩があると言えないでしょうか。

もし人類の英知が第二の『人間復興』を将来達成させることが出来たならば、あるいは縄文文明に近い未来が待ち受けているかも知れない。しかし残念ながら私には其れは儚い夢に思えます。

以上、失礼なことを書きましたことは自覚しています。