以下の話は私が大学・学部へ通っていたときの話である。
豊島区にあった私の下宿から大学へ行くときは、下宿の近くのバス停から池袋駅行きのバスに乗っていた。
私は大学・学部の 4年間は下宿を変えなかったから、そのバスで 4年間、学校に通っていた。
そのバスのバス停・・・池袋・西口でのバス停、もしくは私の下宿近くのバス停・・・で、時々、偶然に会う若い女性がいた。年頃は私ぐらいだった。
その女性は、ほっそりとした、いかにも育ちの良さそうな、どちらかと言えば顔色は白っぽい、というか薄青っぽいというか、ともかく或る種の翳りがある女性だった。
鴎外の『雁』の「お玉さん」を連想させる人で、いつも髪の毛をupにしていて、か細い、弱ゝそうな首スジを見せていた。
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この女性は、私の下宿の近くに住んでいるようであった。
私が大学・学部にいた4年間の間に、月に数度、偶然に会った。
私は其の頃、日記をつけていた。そして此の女性に会ったとき、『 Xさん に会った』と書いていた。
X とは数学で、よく使われる未知数のことである。此の女性の名前を知らないから、私が勝手に Xさん と名付けていた。
X さんと、何度か、偶然、会っているうちに私は、この女性に或る種の好意をもつようになった。
或る種とは、若い男性なら誰でも感ずるに違いない異性に対する関心のことだ。
私は、その頃、黒い学生服を着て通学することがあった。
その学生服の「えり」には、早稲田大学の理工学部を表すバッジをつけていたから、彼女は私が早稲田の学生であることは知っていたはずだ。
彼女は、常に、地味な洋服を着ていたから、私は、てっきり、どこかの会社に勤めている、品の良い、お嬢さんだとばかり思っていた。
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ところが・・・
私が大学・学部の 4年生の頃だったと思う。
なんと、彼女が、早稲田大学の図書館の近くに建っていた教育学部の校舎の前で、誰かと談笑していた。
(現在の教育学部が其処にあるのかどうかは私は知らない。)
『なんだ、早稲田の学生だったのか』と私は気づいた。
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あれは、私が学部を卒業する直前のことだったと思う。
その日、私は『心の灯の会』のガリ版刷りの会誌をもっていた。
池袋から私の下宿に向かうバスに私が乗ったとき、彼女が私の横に座った。
意識的に彼女がそうしたのか、どうかは分からない。
たまたま、私の横の席が空いていたから座ったのだろう。
この 4年間、彼女と話したことは一度もなかった。
彼女は私の存在は知っていたはずだ。4年間も同じバスに乗っていたのだから。
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私は思い切って、彼女に話かけた。
『あなた、早稲田の学生でしょう?』
そしたら彼女は『ええ』と、うなずいた。そこで私は彼女に訊いてみた。
何を其のとき私が訊いたのかハッキリ覚えていないが、彼女は、こう言ったことだけは覚えている。
『わたし、「世界残酷物語」のテーマ曲が好き。』と。
その頃、この映画の『モア』という曲が流行っていた。映画の題名に似合わず、美しい曲だった。それが好きと言うのだった。
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バス停に着くまで私は彼女に積極的に話かけた。
そして、例の『心の灯の会』の会誌の中の私の作った詩を彼女に見せた。
『これ、ボクが作った詩ですよ』
彼女は言われるままに、その詩なるものを黙って見た。
しかし、何も言わなかった。
小説風にかけば、こうなるだろう。
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私:『これ、ボクが作った詩ですよ』
彼女:『・・・・・・・・・・・・』
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バス停では私が先に降り、彼女が降りてくるのを待った。
彼女は少し意外な顔をしたように私は覚えている。
彼女の住んでいる所は、私の下宿の近くだったが、同じ道を少し歩いた後の、反対側の小道にあるようだった。
その同じ道での途中、私は彼女に一方的に喋ったが、
彼女は、「ええ」とか、なんとか受け答えするだけだった。
その間は30秒足らずだった。
そして、彼女は、私の下宿と反対側の小道にさしかかると、ツカツカと靴音をさせながら小走りに走って行った。
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彼女の初めての会話は10分程度だったが、結局、私は彼女の名前を訊かなかった。
その日の日記には、『初めて、X さんと話をした』と書いたものだ。
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それ以来、私は、X さんと会うことは二度となかった。