以下は私の独断だから異論も多いと思う。
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私は山田洋次監督の映画をそれほど観ているわけではないが、確かに小津安二郎のような「厳しさ」は山田監督作品にはみられないように思われる。
それは、たぶん、人柄の差によるものが大きいのかも知れない。 しかし時代背景もあるような気が私はする。
今日では『男はつらいよ』シリーズの評価は高く、ゆるぎないものになっている。
第一作目が発表された当時は、此の作品に対して、悪評はないものの、ちょっとした佳品という感じの評価だったと私は記憶している。
山田監督も単発のつもりだったのだろう。
別に難しいモノやコトを描いているわけでもなく、軽いと言えば軽い人情噺だったから。
此の日本という国において、「家族の崩壊」が庶民レベルで現実化していったのは、『男はつらいよ』シリーズと重なるように私には思える。
「家族の崩壊」が一般庶民社会に現実化する前に、その予兆はあって、小津作品は、それを先どりしていたのだと私は思う。
ただ、小津映画の後期の作品の描く家族は、いわゆる庶民レベルより高い「中流家庭」での話であって、我々庶民での「家族の崩壊」ではなかった。我々庶民には他人事だった。
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ところが此の国が高度成長時代へと突入していき、それが「家族の崩壊」を庶民レベルにまでに現実化していった。
「家族の崩壊」とは「家族の絆のなさ」となるから、それは我々庶民にとっては「家族の絆の保持の願望」となっていく。
その庶民レベルの其のような願望が『男はつらいよ』を支持させ、この映画をシリーズ化させていった、とも言えるような気が私はする。
山田監督は此の庶民の願望を当然感知していたのだろう。 だから必ずしも「厳しい」ことは描けなかった。
なぜなら庶民は社会的には弱い・寂しがりの人が多いからだ。
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しかし、小津映画は、どちらかといえば、言わばインテリ層を対象としていたから、「厳しい」ことも言えることができた。
小津映画と山田映画には、こういう時代背景の差や映画を観る人達の差があると私は思う。
小津監督は映画をみる人に、言わば「お説教」はできたが、山田監督はそれは出来なかった。
そういう意味で山田監督は小津監督より困難な社会に生きてい.ると言えよう。
山田監督の生きている社会とは、今日ただいまの現在の此の国だ。
そして山田監督の抱えているであろう問題 (それは我々の此の現代の問題) は、 小津映画時代とは格段に深刻化している 『崩壊した家族の間の絆の回復』 だと思われる。
この問題は、今日では、いろいろな形で社会現象となって現れてきている。例えば、史上空前といわゆる超高齢化社会での孤立死等。
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例の3/11での災害や、この国に頻発する自然災害は、いやが応にも『家族』というものの存在意味を人々に問いかけている。
そのような問いかけへの回答のキーワードは、『家族』、と言うより、人間同志の『絆』の回復だろう。
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2004年に公開された『誰も知らない』 (是枝裕和監督) という映画があった。
良く知られた映画だから内容は割愛するが、この映画に登場する、見捨てられた少年・少女たちに残された唯一といってよいものは彼等たちの『絆』と彼等たちの『若さ』だった。
この生きにくい今生において、『若さ』は貴重なモノだが、それよりもなによりも大事なのものは、人間同志の『絆』だろう。