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私は高校を卒業すると、一浪して、大学に入学した。
だから、(その2) に書いたように、私が高校生の頃までは、我が家には、私の祖母、両親、及び妹の五人の家族が同居していた。
私の妹は私より 3歳の差があった。
私の両親の子供は私と妹しか、いなかった。
この妹は、平成22年の夏、乳がんで亡くなった。
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正式な天理教徒になる儀式めいたものがあるのかどうか私は知らない。
だから私の両親が天理教徒だったのかどうかは私は知らない。
ただ、祖母は熱烈なる天理教徒だったから、我が家の二階には、ごたいそうな 『神だな』 (正式な名前は私は知らない) があった。
それに向かって、毎朝、祖母と両親が 『おつとめ』 をするのが習慣化されていた。
その 『おつとめ』 なるものは、3人が正座し、或る言葉を唱和し、『手ふり』 と呼ぶそうだが、一種の 『踊り』 めいたコトを行った。
私と妹は、その 『おつとめ』 したことはなかった。するように言われたこともなかった。
しかし、その 『おつとめ』 を毎日のように傍で聞かされているから、その唱和の一部を私は今でも覚えている。それを書いてみよう。
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♪あしきを はろうて たーすけたーまえ てんりおーの みこと・・・
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正確には分からないが、たぶん、私が五歳になったときだと思う。そうだとすると妹は二歳のはずだが、私の両親と私と妹が、天理市に在る天理教本部へ出かけたことがある。
(現在の天理市が、とのように変遷しているのかどうかは私は知らない。私達が天理市に出かけたのは昭和25,6年頃だったと思う。)
天理教の本部へ行くのは、たぶん祖母の勧めに依るものだったと思う。
私や妹の、一種の通過儀礼として、天理市本部へ 『おまいり』 しに出かけたのだろう。
天理教に、そのような儀式があるのかどうか私は知らない。
ともかく、静岡県の旧金谷(かなや)という田舎駅から、天理市まで汽車に乗っての、当時、半日がかりの 『長旅』 だったと記憶している。
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そのときの天理駅前の光景は私は未だに忘れない。
当時は、敗戦の残景が全国いたるところで、傷跡のように未だ在った頃だった。
天理駅前も其の例外では無かったのだろう。
駅前の光景は私の幼い眼には、ひっそりとしていた。
確か、「天理」と背中に書いた紺色のハッピを着た若い人がチラホラと駅前の通りを歩いていた・・・と思う。
そして塵一つ見かけない清潔で簡素な其の町なみの光景には、子供心にも其の「すがすがしさ」には私は感動したように記憶している。
ともかく清潔な印象を私に与えたものだった。
確か、私達は、天理教本部の宿舎に一泊した。
正確には分からないが、たぶん、私が五歳になったときだと思う。そうだとすると妹は二歳のはずだが、私の両親と私と妹が、天理市に在る天理教本部へ出かけたことがある。
(現在の天理市が、とのように変遷しているのかどうかは私は知らない。私達が天理市に出かけたのは昭和25,6年頃だったと思う。)
天理教の本部へ行くのは、たぶん祖母の勧めに依るものだったと思う。
私や妹の、一種の通過儀礼として、天理市本部へ 『おまいり』 しに出かけたのだろう。
天理教に、そのような儀式があるのかどうか私は知らない。
ともかく、静岡県の旧金谷(かなや)という田舎駅から、天理市まで汽車に乗っての、当時、半日がかりの 『長旅』 だったと記憶している。
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そのときの天理駅前の光景は私は未だに忘れない。
当時は、敗戦の残景が全国いたるところで、傷跡のように未だ在った頃だった。
天理駅前も其の例外では無かったのだろう。
駅前の光景は私の幼い眼には、ひっそりとしていた。
確か、「天理」と背中に書いた紺色のハッピを着た若い人がチラホラと駅前の通りを歩いていた・・・と思う。
そして塵一つ見かけない清潔で簡素な其の町なみの光景には、子供心にも其の「すがすがしさ」には私は感動したように記憶している。
ともかく清潔な印象を私に与えたものだった。
確か、私達は、天理教本部の宿舎に一泊した。
その宿舎も、すがすがしかったという記憶がある。
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天理市から帰るとき、天理教徒の一人の青年が私達を見送ってくれた。
その青年は私に絵本を買ってくれた。
そして私の顔を見て言った。
『大きくなったら又いらっしゃいね』 と。
その絵本も、私は、現在、かすかに覚えている。
私は此の青年のことを、今でも私は時折思い出すことがある。
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この体験は、幼かった私の貴重な原体験の一つとなっている。
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天理市から帰るとき、天理教徒の一人の青年が私達を見送ってくれた。
その青年は私に絵本を買ってくれた。
そして私の顔を見て言った。
『大きくなったら又いらっしゃいね』 と。
その絵本も、私は、現在、かすかに覚えている。
私は此の青年のことを、今でも私は時折思い出すことがある。
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この体験は、幼かった私の貴重な原体験の一つとなっている。