以下、文章が煩雑になるから、発言者と発言内容のみ記す。
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Zさん:『ぜんぜん不快に思っていません。 むしろ、そういう話をする場ですから、色々な意見が出るほうが有意義かと思いますです。 予定調和ではつまらないですから・・(笑)
そうですね、現代には現代のよさがあるし、縄文には縄文のよさがあります。
戻る必要など全くないのには、全く同感です。
自分も、縄文から学びこそすれ、縄文人と同じ生活にあこがれているのでは全くありません。
個人的に自分の目指すところは、21世紀型縄文トレーディング生活。
縄文型を身につけることにより、現代社会においてよりいっそう世渡り上手に暮らすことですから・・』
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この時点で此のコミの話題が少し転じてきて、その後、私は以下のように発言している。ここでは、このコミの常連の女性 (Bさんと呼ぶことにする。)が登場する。
私:『他の命を食べなければ自分自身が生きられない。
であれば、Bさんの仰ること、即ち 『命を頂いた分、他の命のために自分を働かせて食べた分を使いきる』 ことは当然、肥満とは、結果として、無縁になるでしょうね。『使いきる』とは満腹に繋がり、余計な食欲は抑制されるに違いないからです。
ただ、それを強いて利他的に行う必要はないと私は思いますが、どうでしょう。
野生の生物たちは、本能として其れを行っていますね。勿論、彼等は其れを利他的にやっているわけではない。飢えてきたら他の生物を又殺して食うだけのこと。肥満になどになるはずがありません。
満腹したら、殺した生物の残骸を残すのでしょうが、その残骸は他の生物が食ってしまう。その結果として、殺された生物は綺麗さっぱり『使いき』られるわけです。 縄文人たちも恐らくそうだったのでしょう。』
Cさん:『Zさん 今の私たちは文明という野生生物にはない論理の中で暮らしていて、残虐性は改善されていません。
ですから意識的に自然界では普通に行われている利他を実行する必要があると個人的には思っています。』
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この時点で別の常連( Cさんと呼ぶ)の発言があった。
Cさん:『宗教や信仰が語られる際に、いつも私が気にしているのは、頭で考えるよりも体で感じる事が考慮されているのか?という点です。』
私:『これは大変、重要な指摘ですね。『頭』だけの空理空論になっていないか。この点は常に留意しなければなりませんね。
実は、例の 『鶏を殺す体験授業』 の私の話も、その点を指摘したつもりなんです。
通常、学校で習うこと、例えば 「命の尊さ・・・勿論、此れは何も人間のみの命に限ったことではなく、生きとし生けるもの全ての命のことです・・・ は、えてして頭だけの理解になりやすいのが現状ではないか、ということを指摘したかった話題なのです。
生徒たちに、頭だけで『命の尊さ』を納得させるのではなく、体で納得させるために、敢て、生きた鶏を自身の手で殺し『命が抹殺されるということは、どういうことか』を体で実践して知らしめる。つまり貴方の言うところの 「頭だけの感得ではなく、体での感得の大切さ」 を、この『鶏を殺す体験授業』で実践する、ということなんです。
「宗教」なり「信仰」の根本は、「苦しさ」「悲しさ」「痛み」といったモノの実体の感得にあるとするならば、その感得は、頭のみの知識で知るのではなく、現実の実践によって知ることが大事ですよね。
ですから、例えば鶏を自身の手で殺し、その時の鶏の「苦しみ」や「痛み」を直接、自身の目で凝視することが肝要となるはずです (授業の実験材料となった鶏には気の毒ですが)。
以上、貴方の御指摘に答えられたかどうか分かりませんが、一応リコメントしておきます。』
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