2016年7月24日日曜日

『他者を食う』ことの是非 (その1)

1年半程前、mixi に『縄文ゼミ』というコミュニィティがあって、そこで縄文文化について、いろいろなことが議論された。そのゼミには数名の常連が書き込みをしていた。私もその一人だった。

そこで議論されたことの一つは『他者を食う』ことの是非に関することだった。

この議論の「きっかけ」は、或る人の 『動物が肉にされる時にどう殺されているかを一度は見て欲しいですよね。』という発言だった。縄文人は狩猟を行っていたという事実の基づく発言だった。

この発言に対して私は以下のようにリコメントした。

読み易くするために行間に***マークを入れてある。

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>動物が肉にされる時にどう殺されているかを一度は見て欲しいですよね。

この件について。「縄文」とは外れる話題ですが、私たち生物は他の生物の命を奪って生きている存在ですよね。

私たちは要するに殺生しなければ存在しえない。

今日のほとんど全ての人は、『殺された生きもの』の痛みを知らずにして生きている。

これが今日の文明人たちの生き様です。或る意味では致し方のないことです。

学校の教室では、命の尊さを教えている。

しかし実情は、自分たちの食糧となる他の生物たちの殺される苦しみは知らない。

パックに包まれた牛肉なり何なりの物しか知らない。その殺された牛の命に思いをはせることは先ずないでしょう。
(私も含めてですがね)

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そこで、これは新聞か何かで知ったことですが、或る中学校では、生き物の命を奪うことがどういうことかを生徒たちに体験させる授業があったそうです。

現在も行われているかも知れませんが、その体験授業とは、たしか生きた鶏だったと思いますが、その鶏を実際に自身の手で殺す、という『授業』です。

鳴きながら逃げ回る鶏を捕え、自身の手で締め殺すか切り殺す。そういう体験をさせることによって、命を奪うということは現実にどういうことかを生徒たちに体験させる。その体験をとうして命の尊さを現体験として学ぶ。そういう授業です。

このような授業には賛否両論があるでしょう。
今時の都会の親達は血相を変えて反対するに違いない。

しかし、確実に言えると思うのは、そういう体験をした生徒たちと、したことのない生徒たちとは、彼らの其の後の人生において、『命の尊さ』の重みの実感度が決定的に違うだろう、ということです。

黒板に書かれただけの「命の尊さ」を筆記するだけの生徒たち。

逃げ回る鶏を自らの手で其の命を抹殺する体験をした生徒たち。

どちらが、「命の尊さ・重み」を本当に実感しているか?
それは言うまでもないでしょう。

今日、私たちはスーパーマーケットで売られているパック詰めされた「命」しか知らない。

そして食堂で、その肉を食べ、「あ~ら、おいしいお肉」などとお喋りしあい、其の殺された命への痛みなどに思いをはせることはハナからしない。

そこには、私たちの、無意識の偽善・欺瞞がある。

これは文明化というものの、避けえない偽善・欺瞞の一つだと私は思いますね。

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昔は、田舎では飼っている鶏を殺して食ったものです。

また縄文人たちも動物を自らの手で殺して自身の命の糧にしていたのでしょう。

命の尊さと重み・・・おそらく現代人よりも縄文人のほうが其れを実体験として痛感していたと私は思いますよ。

私は「生命の尊さ」という言葉を聞くたびに、上に書いた体験授業を思い出します。