2016年7月20日水曜日

『心の灯の会』のこと。(その4)

私が『心の灯の会』に入会した時期は、確か、大学三年生の終わり頃だったと思う。

私の大学・学部時代 (昭和38年春~昭和42年春)は、都内・豊島区に在る、木造 2 階だての頗る建たつけの悪いアパートだった。

そのアパートが在る敷地は大変広く、木々が茂っていた。

そのアパートの 2階には、四つ部屋があって、3畳の部屋が二つと、6畳の部屋が二つあった。

私は 2階の、一番、隅にある 3畳の部屋を借りた。
家賃は 3千円/月であった。

6畳の部屋の各部屋には、私より、一歳下の立教大学の学生が居た。彼等とは私は将棋をさしたりして親しくしていた。6畳の部屋には二人、同居していたが彼等とは話をしたことがなかった。

私の3畳の部屋からは、庭の木々がよく見え、そういう意味では環境はよかった。

その木造アパートには、各階に、共同で使用する、汲み取り便所一つと、炊事がちょっと出来る金属台着き水道の蛇口一つがあった。借家している人は、私を含め、全て自炊していたのだった。

そのアパートの貸主は、Mさんと言ったが、アパートを実際に管理しているのは、Mさん宅の年長者のお婆さんだった。

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私は今でも覚えているが、そのお婆さんの孫娘 (恐らく五、六歳だったろう) が、広いに庭をブラブラ歩きながら、当時、流行っていた『ばらが咲いた』を、よく口ずさんでいた。

この歌をネットで調べてみると、マイク・眞木が初めて歌ったのは昭和41年6月だそうだ。

巷に此の歌が流行りだしたのは、その時期より遅れるだろうから、時期的には私の記憶と、ほぼ一致する。

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この孫娘さんは現在はどうしているだろう。

私のこの日記は約半世紀ほど前の話だから、この孫娘さんは、健在ならば、今やお婆さんになっているはずである。

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私より一歳下の立教大学の学生が居たことは先に書いた。

私の 3畳の部屋の隣の 6畳の部屋に彼は住んでいたのだが、めっぽう、将棋が強かった。私は負けてばかりしていた。

彼の名前は失念してしまったが、彼は、小山明子の大ファンだそうで、彼の故郷:群馬県・前橋市の自宅の彼の部屋には小山明子の写真やらポスターやらが、ベタベタ貼ってあってあると言っていた。

私は其れを聞いて、若いのに随分、年増と言ってはなんだが、好みが「老けてるな」と思ったものだが黙っていた。

尤も、その頃の小山明子も若かったには違いないが。

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私は大学生の或る時期、萩原朔太郎の『郷愁の詩人・与謝蕪村』に凝ったことがある。

その話をすると、彼は、その郷土の詩人を自慢したものだった。