2016年8月15日月曜日

俳句は『解説』できるのか?

私は俳句はズブの素人です。先ず、それを念頭においてもらたい。
ちょっと思うところがあって以下を書いた次第です。
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此処で『解説』という意味は、例えば其の俳句に使用された文字等の説明という意味での『解説』ではありません。例を出すのが早いでしょう。有名な芭蕉の
『古池や蛙(かわず)飛び込む水の音』
をWikipedeaで検索すると、この俳句について詳細な『解説』が書かれています。
私の此処で言いいたい『解説』は、そういう意味での『解説』ではありません。
私たちが此の俳句を読んで (読むというより観て) 或る興趣を感じます。
その興趣を私たちは『解説』できるのでしょうか。
恐らく、これは単なる私見ですが、その『解説』は限りなく不可能に近いと思われます。
私たちが此の俳句から感ずる興趣は、極めて繊細で微妙なものであるに違いなく、たとえ其の興趣の『解説』ないし『説明』を試みても、そこから抜けおちていく『なにものか』があると私には思われます。
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ここで数学と比べてみると分かり易いでしょう。
『平面幾何において三角形の内角の和は180度である。』
この命題に対して万人か゛納得する完璧な『解説』は存在します。
しかし、上記の芭蕉の俳句には、『私』が感じた興趣の『解説』は万人どころか他人一人にさえ存在し得ないと私は思います。
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上に書いたことは、むしろ常識で、なにを今更と嗤う人が多いと思われます。
しかし、例えば Wikipedea で書かれていることを、我々は、私が言う意味での『解説』
と捉えがちではないでしょうか。

おそらく俳句にとって最も肝要なことは、そのような『解説』の解読では全くなく、『当該俳句を如何に興趣するか』にあるのでしょう。

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上記したことは、なにも俳句に限らず、芸術一般に言えることでしょう。