2016年8月21日日曜日

日本うまれの横綱なんていらない

というか、横綱に人種など、どうでもよい。
私はスポーツには関心がない人間だが、大相撲のテレビ中継は暇にまかせて毎場所みている。
近々、九月場所が始まるが、その関心の一つは白鵬。正直、私は日本生まれの力士には関心がない。我々は、白鵬という天才をリアルタイルで見る幸運な時代に生きている。ちょうど将棋の天才・羽生善治をリアルタイムでみることができるように。
天才たちをリアルタイムでみることができるということは、同時代人にとって幸運なことなのだ。私は残念ながら天才・双葉山をリアルタイムでみることはできなかった。
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相撲というモノは日本古来の伝統を受け継いでいることは言うまでもない。そういう意味では能・歌舞伎と同様に伝統芸能と何ら変わらない。だからといって、その伝統芸能の担い手が日本生まれの人でなければならない理由は、少なくとも私には見つけることができない。人種は少なくとも私には其の理由にはならない。
今や大相撲はモンゴルの人たちが大活躍している。結構なことではないか。
一部には「日本うまれであること」にこだわる人も少なからずいるようだ。モンゴル人他ガイジン(嫌な言葉だ)が関取の多数を占めるが故に、なにかと嘆く。
私はその嘆きを耳にするとき或る不愉快さを常に感ずる。その不愉快とは?
要するに、嘆く人間たちの度量の狭さだ。人種差別とまでもは言わないが、その萌芽を私は感じてしまう。
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いまさら言うまでもなく、大相撲は畢竟勝負の世界である。強い者が勝ち弱い者は負ける。そこには人種の壁は基本的にない。私自身の好みから言えば、日本生まれの力士達より外国の力士達に応援したいし、している。彼らは始めから、いろいろなハンディーを負っているからだ。一種の判官贔屓だ。
日本生まれの力士達よ、悔しかったら、勝て!! コトは単純である。
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さて、もしかしたら私は此の大相撲において「歴史」を、この目で目撃できるできるかも知れない。それは白鵬が双葉山を超える一瞬だ。そのスリリングな光景には人種の差など「チイセー、チイセー」。