私は現在72歳だが、これまでの人生で、特記すべき、一点集中豪雨の体験は二度ある。
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・一度目の体験
あれは私の郷里、昔の言い方で言えば、静岡県の金谷(かなや)町での体験である。
金谷町は大井川の西側にある。
あの日は何年だったろうか。ペギー・葉山の『南国土佐を後にして』 が流行った年だから、ネットで調べると、1959年になる。昭和34年である。例の伊勢湾台風があった年である。
この台風は9月26日だが、我が町が一点集中豪雨に襲われたのは、それ以前だったはずだから、8月頃だったと思う。
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その年の8月頃の或る日の午後だったと記憶している。ポツポツと降り出した雨が、突然、豪雨に変貌した。そのとき、自宅に居たのは、私、母、妹、及び祖母の四人だった。父は、大井川の東側の島田市に在る勤務先に居た。
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私たち四人は、『まぁ、そのうち止むだろう』と呑気に気にもせずいたのだが、豪雨は一向に収まらず、そのうち文字どおり滝のようになった。
そうするうちに、自宅に雨水で入りだしてきた。
後で知ったことだが、我が家の近くに流れている、大代(おおじろ)川の川上が決壊したのだった。
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自宅の侵入した水は、みるみるうちに、その水位を上昇せていった。その早さたるや、驚くべくもので、目で見ていて、ハッキリと確認できた。その内、半鐘の「早うち」が鳴り出した。緊急に避難せよ、という合図だった。そのときになって初めて、我々家族の四人は、自身の命の危険を知らされた。
さぁ、逃げようとしたのだが、そのときは、既に、我が家の前の国道一号線は、川化していた。
呑気と言えば呑気な話だが、未体験なものは、人間は呑気になるらしい。
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我が家の前には国道線の西側の200m程に、コンクリート製の二階建ての警察署があった。
その警察署の二階に我々、四人は、なんとか、たどるつくことが出来た。その二階には既に避難してきた人たちが、十人程居た。
警察署の二階の窓から外を眺めると、その警察署の前、および国道の、更に、西側付近は、濁流化しており、そこを渡るのは不可能だった。
まさに、我々は危機一髪で、警察署の二階に逃げ込むことが出来たのだった。
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警察署の二階の窓から外を眺めていた人が言った言葉を、私は今でも覚えている。
『死ねば、もろとも、だい』
(「だい」とは此の地域の方言で、「だよ」という意味。)
事実、此の警察署自体が濁流に耐えるという保証はなかったのである。
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豪雨は数時間程、間断なく続いたと記憶している。その豪雨が、おさまりかけた頃は、既に、夕暮れになっており、警察署の二階の窓から紫色の雷光が盛んに見えた。
その日の夜、どう過ごしたのか、私は全く記憶にない。たぶん、自宅で戻ったと思うが、其処は、泥沼化していたはずだから、警察署の二階に泊ったかも知れない。
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後日、知ったことだが、私の母の実家の家族は逃げ遅れ、仕方なく天井を、つき破り、其処へ逃げこんだそうである。しかし、その家も倒壊しないという保証はなかったのだから、その家族も、文字どおり命拾いしたのであった。
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父は、その翌日の早朝、島田市の勤務先から徒歩で自宅へ帰ってきた。
現在なら、何らかの情報伝達手段があるだろうが、当時は、そのようなモノや、モノゴトの緊急性についての認識が欠如していたのだろう。
そもそも島田市は何の被害も受けなかったのである。父は大井川の橋を徒歩で渡ったのだが、凄い濁流だったそうである。もし、大井川が決壊していたら・・・その被害は私は、今でも想像も出来ない。
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父という人は呑気な人では決してなかったが、我が家付近の惨憺たる有様を、まさか、これまでかと想像していなかったらしく、我が家への帰宅の徒歩の間、『南国土佐を後にして』 を口ずさんでいたそうである。
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その日から約一か月間、泥沼化した我が家の補修の悪戦苦闘が、親戚一同、総がかりで始まった。全国から、「見舞い品」が町会を通して、各被害家庭に配布された。
私が、『イカの缶詰』なるモノを初めて知ったのは、その「見舞い品」からだった。
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いずれにせよ、水というものの、恐ろしい一面を思い知らされた初体験だった。
因みに、空前の一点集中豪雨を体験した町役場の担当の人は、決壊した大代川を直ぐ補修した。
その後、我が故郷の町が、このテの災害にあったという話は私は聞いていない。